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2019年1月20日 (日)

大内弘世の幕府帰服2

 同年八月一〇日に弘世が長門国二宮大宮司に祈祷を行い忠節を命じた文書では「正平十八年」と南朝年号を使用している。「貞治二年」三月に弘世が周防国分寺に与えた禁制があるが、「沙弥」と記すなど不自然な点があり、応永二六年に大内盛見に安堵を受けるために作成されたものであろう。ところが九月二〇日に弘世奉行人が長門国二宮大宮司宛に出した連署奉書では、北朝年号である「貞治二年」が使用され、これ以降の弘世関係文書には南朝年号を使用したのはない。ということで、弘世が幕府に帰服したのは九月初め頃ではないか。
 この時期の史料を確認すると、石見国の益田兼見が七月二五日に北朝年号を使用して置文を作成している。その内容は、所領を三人の息子に譲った上で、以後、悔い返したり、新たに男子が誕生しても譲状を与えることはないとしている。幕府方への復帰を決断したことにより兼見が置文を作成したものである。八月二一日には足利義詮が児玉氏に対して軍勢催促を行い、貞治三年二月一七日には足利義詮が、一二月一三日の豊前国柳城凶徒との合戦について、大内弘世から注進があったとして、長門国人小野弾正左衛門尉に対して感状を与えている。
 石見国でも貞治二年一二月一四日には義詮が守護荒河氏に対して、邑智郡出羽上下郷を、濫妨人等を退けて君谷弾正左衛門尉実裕跡に沙汰付けるよう命じている。君谷実祐は一貫して幕府方であったが、南朝方の高橋氏による攻撃を受けて討死し、出羽上下郷も高橋氏による押領が続いていた。これに対して君谷氏からの訴えを受けて、将軍が守護に命じたものであった。石見国でも国人が幕府方に帰参する動きがみられたため、君谷氏が訴えたのであろう。貞治三年八月には守護荒河氏と並ぶ石見国内の幕府方の中心であった某直信(一三日、宛所削除)と将軍義詮(二一日、周布氏宛)が国人に軍勢催促を行っている。

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