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2019年1月19日 (土)

白上村地頭委文氏2

 問題は委文氏の出自であるが、駿河国入江庄内委文を苗字の地とする東国御家人であろう。応永六年九月二六日に、駿河国守護今川了俊が伊達左近将監範宗に入江庄内委文・櫟田方を宛行っているが、それは範宗の本知行内であり本領安堵であった。正平六(観応二)年から七(同三)年にかけて、幕府方であった伊達藤三景宗が、足利尊氏から入江庄内三沢小次郎跡とその妻の跡を勲功の賞として与えられている。
 駿河国は当初武田氏の支配下に入ったが、後に武田氏は没落して頼朝の支配するところとなった。そのため、駿河国武士の上には幕府の有力御家人が惣地頭として君臨していた。その後、入江庄内の武士が、失脚後上洛しようとした梶原景時とその一族を誅伐する際に勲功を上げたため、船越、吉川、三沢氏らは播磨国・淡路国内の景時一族領を勲功の賞として与えられた。さらには、承久三年の承久の乱で、当時淡路守護佐々木経高に率いられ上京していた淡路国御家人(駿河国出身の御家人は対象外)は京方により没落し、その所領が駿河国御家人に与えられた。ここでは登場しないが、入江庄内には楠木・長崎があり、これが南朝の忠臣楠木氏と得宗側近長崎氏の苗字の地となった。
 現在の国土地理院地図で確認しても入江庄の所在した静岡県清水市内に委文・櫟田のみならず、三沢氏の苗字の地三沢も確認できないが、三沢氏が反幕府方となり所領が幕府から伊達氏に与えられたことが影響している可能性がある。以上の事から、委文氏は治承・寿永の内乱と承久の乱の恩賞として西国に所領を得ていた駿河国御家人と考える。その委文氏の所領が飯多郷内にも存在したのは、飯多郷が長野庄惣政所であった虫追氏の本拠地であったように、庄内支配の中心だったためであろう。
 その後、白上郷は観応の擾乱期には幕府から安濃郡河合郷地頭金子氏に与えられておいるが、これは反幕府方であった委文氏の所領が没収されたものであったためであろう。これに対して、石見国で足利直冬方が優位に立つと、白上郷に権益を持つ来原田村氏で反幕府方となった一族が直冬から白上郷を与えられ、次いで婚姻関係を持つ周布氏の所領となった。

 

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