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2019年1月22日 (火)

長野庄と大家庄2

 今回の益田実氏所蔵新出文書中の寛喜元年五月九日関東下知状は、大家太郎友光と刺賀九郎友綱の間で所領をめぐる対立があり、友綱が幕府に訴えた事に対する裁許状である。幕府での対決(三問三答)に至る前(入門が行われる)に両者の間で大家東郷は友光分、佐起本郷は友綱分とする和与が成立したのを受けて、幕府が友光を大家東郷地頭職に補任している。両者は「友」の通字を持つ藤原氏一族であったことがわかる。邇摩郡内大家東郷とともに、安濃郡内刺賀郷、邑智郡内佐起本郷も藤原氏領であった。
 以前は三庄とも摂関家領で、関白藤原忠通が石見国知行国主であった天養元年以降に成立したとされていたが、長野庄は摂関家領ではなく皇室領であることを明らかにした。近年、西田友広氏が長野庄領家職を待賢門院の侍民部丞(大夫)卜部仲兼の関係者が相伝したとの説を提示した。仲兼は大治四年五月には待賢門院のために御産御祈を行うとともに等身愛染王百体を増進し、受領でも院司でもない仲兼がその行為を行ったことは驚くべきことであった。卜部氏は祭祀を司る一族であり、仲兼は女院の支持により諸社司に多補されていた。次いでその功により同年八月二八日に石見守に補任され、二期八年務めた後に和泉守藤原宗長と相博した。
  両国が待賢門院の分国であることとその背景についてはすでに述べた通りであるが、兼仲の前任の石見守藤原尹経並びにその前任の藤原資盛も注目すべき人物である。

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