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2019年1月 4日 (金)

出雲守源光隆の背景2

 法金剛院の整備は女院の後見人白河院が死亡してから本格化し、基隆が造営した御堂(西御堂)に続いて、三重塔と経蔵(造進者は藤原通基、保延二年供養)、北斗堂(造進者藤原顕隆の子顕能、保延元年供養)、東新造御所(造進者周防守藤原憲方=顕隆の異同母兄で女院庁別当であった為隆の子、保延元年落成)、南御堂(造進者女院判官代親隆=顕隆の異母弟、保延五年供養)、三昧堂(造進者不明、保延五年供養)が造営・整備されていった。塔や御堂の整備は個々の受領に振り分けられているが、すべてを受領が負担するのではなく、女院庁と分担した。そのため女院庁の財政基盤として女院の分国が設定されたと考えられる。
 出雲守光隆は国守となるとすぐに三期以前の未納分の責めの停止を申請し、長承三年四月二五日に女院により供養が行われた白河御堂とその仏像を重任功として整備した。実際の出雲国衙の運営の中心となったのは女院庁の判官代藤原資光であった可能性が大きい。次いで長承元年二月の資光死亡後は、後任の女院庁判官代で、平忠盛の後室宗子(池禅尼)の兄である藤原宗長がその役割を担い、宗長が仁平三年に死亡後は資光の娘である待賢門院女房阿波を妻とした資光の甥資憲が継承した。また、当初光隆は藤原基隆の猶子となったが、基隆が死亡すると妻(女院女房)とその父である女院庁判官代高階家行がその後見人となった。光隆の異母兄俊雅は久安元年に四五才で参議となったが、その年に死亡している。
 光隆が出雲守から安芸守に遷任したのは杵築大社造営が現実の問題となったためであった。安芸守在任中には、康治二年に待賢門院の子で前斎院であった統子内親王の御所三条殿を造営し、勧賞として遷任宣旨を与えられた。後見人高階家行も造営により従四位上に叙せられたが、光隆は女院死亡の一月前の久安元年七月二五日に死亡した。光隆の妻は女院死亡後は子統子内親王(上西門院)の女房となったが、久寿二年に近衛天皇が死亡し、待賢門院の子雅仁が後白河天皇として即位すると、藤原資憲の妻女房阿波とともに天皇の勾当内侍となった。

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