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2019年1月18日 (金)

因幡守通基再考2

 通基は同年三月の石清水八幡宮と一一月の賀茂神社の臨時祭でも舞人の一人として見える。翌年一一月にも舞人としてみえた後、しばらく史料を欠き、大治二年(一一二七)一〇月一七日に、武蔵守通基が天皇への昇殿を認められ、一一月三日には神宝・神馬を奉納する使者として宇佐八幡宮に派遣されている。通基が武蔵守から因幡守に遷任したのは同年一二月七日であった。
 通基が叙爵した時期を示す史料は残っていないが、清隆の例を参照すると、天永年間(一一一〇~一一一三)であろう。従五位下に留まっていたことからすると、
武蔵守が受領の初任であると思われる。武蔵国は律令制下では最上位の大国であるが、正二位権大納言叔父宗通が知行国主であった可能性がある。そして大治五年一月六日には待賢門院給として四一才で正五位下に叙せられている(『中右記』)。叙爵して以降加階したのは初めてであるにもかかわらず、従五位上を飛び越して正五位下に叙任されたため、人の耳目を驚かしたとされる。
 通基には待賢門院女房となっていた源師隆の娘との間に、嫡子通重と次子基家がいた。通重は系図では徳大寺公能の娘との間に嫡子能保をなしたとするが、両者の生年は三二才差であり、公能の姉妹(徳大寺実能の娘)を妻としたと考えられる。実能と能保ならば五一才差となる。通基の娘は実能の同母兄西園寺通季の嫡子公通との間に嫡子実宗を産んでいる。通基の孫能保は父通重を早くに失ったため出世が遅れたが、頼朝の同母妹坊門姫を妻とし、幕府と朝廷の両方に人脈を持つことを背景に従二位権中納言まで昇進した。
 通重の同母弟基家は後に公卿となったため大治五年の生まれであることが判明する。早世した通重の生年については不明だが、その子能保の生年を勘案すると、大治年間であろう。通基が待賢門院女房で、後には院の娘統子内親王の乳母となった女性を妻としたのも大治年間で、それが大治五年に通基が待賢門院給で異例の昇進をした理由であった。
 早くに修正の原稿を書き始めたが、『長秋記』『中右記』の内容をきちんと確認する作業が必要なことを痛感させられ、ここ最近はそれを含む院政期の日記を読んでいた。それが一段落したので、ひさしぶりにアップした。

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