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2019年1月23日 (水)

豊田郷と俣賀氏1

 注文していた『国立歴史民俗博物館研究報告』第二一二集が届き、とりあえず渡邊浩貴氏と田中大貴氏の論考を読んだ。後者については近代以降の文書の伝来に関する基礎研究であり、特に付け加える点はないので、前者について、気になった点の一部を述べてみる。渡邊氏の研究で明らかになったことがあるとともに、新たな問題点が生まれている。
 渡邊氏は大山喬平氏が示した豊田郷内俣賀村と横田村が「中道」により惣領内田氏分と庶子俣賀氏分に分割されたとの説を退け、中道は横田村のみにかかるとした。これは、大山氏の思い込みから生まれた初歩的ミスで、当然の解釈である。「石見国中世武士団の一考察」(一九九四、以下では「論文」と表記)の中で指摘している。ただ、渡邊氏は中道のルートを再確認した上で、俣賀村が上俣賀氏と下俣賀氏に分割された際に、中道を堺に、東南側が上俣賀氏(致直)領、西北側が下俣賀氏(円戒)領に分割されたとした。中道はあくまでも横田村の中道であり、これを俣賀村を含めて考えると、数多くの矛盾が生じてくる。例えば南北朝期に内田致員が立て籠もった豊田城の所在地が俣賀氏領内となってしまう。その原因として、渡邊氏が関係者間の所領分割の一部にしか言及されないことがある。「論文」では豊田郷の範囲に関する大山氏の説も誤っていることを述べた。
 俣賀氏初代致義には三郎致直・五郎円戒とともに「豊田郷内一方地頭」蓮念がいる。致直と舎兄蓮念の間で問題となったのは「豊田郷内俣賀村田畠在家地頭職」であり、俣賀村は三分割された。また、横田村は俣賀氏領となった横田下村と内田氏惣領家領となった横田中村とともに、尼法蓮がその子に譲った「横田上村屋敷田畠等」を含む横田上村があった。文永八年に西仏が嫡子生仏に譲った「中豊田・道辺・一原・下角・篠原・大岳」を含めてその範囲を考えなければならない。横田中村と中豊田の関係も重要である。

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