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2019年1月20日 (日)

大内弘世の幕府帰服1

  大内弘世は観応の擾乱以降の防長両国で幕府方守護(高師泰・大内弘直と厚東武直・義武父子)と対立して南朝年号を使用して独自勢力として活動した。山陰道東部で南朝年号を使用した山名時氏が足利直冬による一時的な京都占領に関与したのに対して、弘世は直冬が石見国を発して上洛した際にも同行せず、直冬と連携したことは確認できない。
 この弘世が幕府に帰服した時期については、貞治二年春(佐藤進一氏)ないしは同三年春(『太平記』)とされるが詳細は不明なので、再確認する。大内氏の歴代当主と家臣団について分析した藤井崇氏は貞治元年九月と断定的に記しているが、その根拠は示されていない。
 貞治二年五月二日島津師久軍忠状(『旧典類聚』)によると、大内弘世が豊前国に渡海して来たため菊池肥後守武光が退散して幕府方にとって一時的に事態が改善したが、程なく弘世が帰国した。そのため幕府方には難儀な事態となり、九州探題斯波氏経も周防国に逃れたため、島津師久から飛脚を進めたところ、上洛するとの返事であった。
 これだけでは情報が不足して事態が十分理解できないが、『太平記』によると、長門国で弘世方と対立してきた厚東駿河守(義武ヵ)が不利な事態を打開するため、筑紫に渡って菊池氏などの南朝方と結んで弘世と戦おうとした。これに対して弘世が厚東氏を追う形で渡海して豊後国で菊池氏と戦ったが、二度の合戦に敗北して包囲されたため、防長に帰国した。この一連の動きの前提として、弘世が幕府方に帰参したことがあるというのが佐藤氏の説の前提であるが、弘世が九州の南朝方と戦ったのは敵対する厚東氏の行動によるもので、消極的選択であった。

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