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2019年1月22日 (火)

長野庄と大家庄1

 長野庄と大家庄は益田庄とならんで石見国における大規模庄園であるが、益田庄がその内部所領の地頭がすべて御神本氏(ただし、乙吉・土田両村地頭は非益田氏系)であり、中核所領である益田本郷の占める割合が惣田数の六割強であるのに対して、長野庄では最大規模の吉田郷で三分一強(ただし中核所領は飯多郷ヵ)、大家庄では最大且つ中核である大家東郷が占める割合は四分一弱でしかない。大家西郷を併せても四割弱であるが、一方は非御神本系藤原氏であり、他方は非益田氏系御神本氏である。福屋氏、周布氏といった益田氏系御神本氏が婚姻関係を通じて大家庄内の所領を獲得したのは鎌倉期以降である。
 長野庄と大家庄では内部の所領の独立性が高いがゆえに、全体を束ねる惣政所職(長野)と惣公文職(大家)が存在し、内部所領の庄官がすべて地頭職となり、その補任権が庄園領主(領家)の手を離れた後も、惣政所職と惣公文職の補任権は領家が保持している。ただし、大家庄惣公文職については領家の補任を幕府が保証する下知状が出され、源二郎惟行は「石見国御家人」と呼ばれている。
 以前のブログの記事では寛元元年十一月二三日関東御教書により惟行の安堵を伝えられた宛所の「源二郎」を領家と解釈したが、新出文書により源二郎=惟行であることが判明した。惟行は伴姓であったが、養父国知から惣公文職を譲られ、改姓して「源次惟行」となった。大家庄惣公文の源氏と中核所領大家東郷地頭藤原氏は別の一族であるが、前者の「国知」と後者(後述)の「友(知)光」との間には婚姻関係が結ばれていた可能性が強く、後応永二九年十二月二〇日足利義満御判御教書で、源氏跡の惣公文職を他の庄内地頭職とともに「大家出雲入道光誠」が安堵されている。
 出雲国の杵築大社領も内部所領の領主を束ねる存在として神主(惣検校)職が置かれていた。長野・大家庄との違いは、内部所領が幕府が補任権を持つ地頭にならなかったことである。また、惣政所職と惣公文職が源氏一族により相伝されたのに対して、神主職は特定の一族による相伝ではなく請文を提出した人々の中から領家が補任した。

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