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2019年1月18日 (金)

因幡守通基再考1

 西園寺通季が大治三年六月一七日に死亡している点、通季の嫡子公通が当初は藤原長実の聟となっていた点、さらには長実が長承二年八月一九日に死亡した点などが十分には反映されていなかったので、持明院通基を中心に再度論じる。
 通基の父基頼は中御門流の祖となった右大臣俊家の子で、異母弟である宗俊と宗通が権大納言に進んだのに対して、基頼は正五位下中務大輔にとどまった。基頼は受領を歴任しつつ陸奥守の際には鎮守府将軍を兼ねるなど、武人としても活躍した。
 通基の妻の父藤原国仲は高棟流平氏から良門流藤原資国の養子に入り、その子には白河の寵臣として知られる左衛門尉(相模守・信濃守)盛重がいた。資国の曾祖父兼輔は醍醐天皇の外叔父であった藤原定方の娘を妻とし、醍醐天皇の側近として昇進を重ねて従三位権中納言に昇ったが、その子の中からは公卿になるものは出なかった。
 元永元年(一一一八)一月二六日に、女御璋子が中宮に立后された際の儀式で召された六府佐の一人として右衛門佐通基がみえる。寛治四年(一〇九〇)の生まれで当時二八才であった。左衛門佐であった藤原清隆は因幡・但馬・近江守を歴任した隆時の子で通基より一才年少である。一八才で叙爵し、六年後の永久二年に二四才で左衛門佐に補任されている。二六才で紀伊守、二七才で正五位下に叙され、二八才時には中宮璋子の権大進にも補任されている。左衛門権佐(左衛門佐と同格であるが同時に検非違使の宣旨を受ける)であったのは従四位下右中弁藤原(日野)有信の嫡子実光である。実光は延久元年(一〇六九)の生まれで、三二才で叙爵(従五位下)し、右衛門権佐となったのは三七才の時点である。右衛門権佐であった藤原重隆は参議為房の子で、公卿となった為隆・顕隆の同母弟であったが、人となりに問題があり、正五位下右衛門権佐であった元永元年に四三才で死亡している。
 通基の昇進のペースは清隆には及ばないが、実光と重隆よりは勝っていた。通基は父基頼が五〇才時点の子であるが、叔父宗通(基頼より二九才年少)は通基が五才時に公卿となり、元永元年には権大納言で立后された璋子の中宮大夫を兼ねていた。その娘宗子は藤原忠通の正室となり、崇德天皇の皇后聖子を産んでいる。また通基より二八才年長の従兄弟宗忠(宗俊嫡子、『中右記』の記主)も同年には正二位権中納言の地位にあった。通基が中宮璋子に仕え、その女房を妻とする背景にあったのは叔父宗通であろう。宗通の子信通と伊通は通基と同世代(一才年少と三才年少)であるが、通基が父の「基」ととともに叔父宗通の「通」をその名に付けていることが注目される。

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