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2019年1月25日 (金)

俣賀村と俣賀氏1

 分析する度に異なる説を提示する状況に陥っているが、その最大の原因は、上俣賀村と下俣賀村の範囲が不明(判断する明証がない)だからである。今回の歴博の調査で広範囲な地名の検出により進展を期待したが、道半ばというところか(現時点の報告書と論文を見る限り)。
 上下俣賀村は本来存在した区分ではなく、東国御家人俣賀氏が入部して分割相続をしたことで生まれたものである。そこで問題となるのが、俣賀村が「中道」を堺に分割されたとする渡邊氏の見解が、今回の研究の共通理解かどうかである。それ以上に残された情報に合致しているかである。豊田郷の範囲についても報告書では大山氏の誤った見解が踏襲されている。
 貞応二年の石見国惣田数注文によると長野庄内得屋郷が二〇町二段半であるのに対して、豊田郷は一八町四段一五〇歩でしかない。長野庄は一二世紀半ばの待賢門院分国ないしは藤原忠実(忠通ではない)の知行国主であった時期に寄進・立券されているため、この田数は一二世紀半ば以前のものであるが、如何に開発地が限られていたことがわかる。俣賀村の田数は多く見積もっても庄全体の三分一であろうから、六町以下となる。その背景は得屋郷よりも俣賀村の谷が大きく、その一部しか開発されていなかったことである。俣賀村の状況は鎌倉初期に地頭が補任され、東国御家人領となったことで大きく変わった。長野庄内白上郷は那賀郡来原別符と同様、東国御家人田村氏領となっている。それまでの庄官の拠点としたのは川上流部の枝谷の部分だったとのに対して、東国御家人は下流部に拠点を設けて開発を進めていくとされる。俣賀村についてもその観点からの分析が必要である。ちなみに貞応二年惣田数注文では七町三〇〇歩であった那賀郡永安別符が、正中三年に姉と弟の間で中分された時点では五〇町になっている。
 渡邊氏は俣賀村が中道を堺に分割されたとしているが、それでは梅月谷が庶子下俣賀氏領となったことと矛盾している。基本的には河を堺に分割されたとすべきであろう。その際に問題となるのが「上」と「下」である。本俣賀川(角井川)を基準に考えれば下流域が下俣賀村で上流域が上俣賀村となるが、俣賀村が豊田郷内に含まれた(豊田郷は吉賀郡内である)ことは上下が逆転する可能性がある。俣賀村から豊田郷の中心である横田村へ降っていく観点からである。自然の地形と人為的に作られた豊田郷の枠組みとでは正反対となる。すなわち横田村に近い方が「下」であり、遠い方が「上」である。上俣賀村と下俣賀村が河で分割され、横田村に近い俣賀村南部が下俣賀村であれば、梅月が下俣賀氏分であることと矛盾しない。

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