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2019年1月19日 (土)

白上村地頭委文氏1

 益田氏の分家に残されていた中世文書が『国立歴史博物館研究報告』二一二集で紹介されている。その中で、宝治二年十二月二六日に将軍頼嗣袖判下文で白上村半分と飯多郷内田畠在家地頭職を安堵されている「委文宗景」について、現時点での解釈を試みたい。渡邊浩貴氏によって簡単な解説が付されているが、情報が十分に踏まえられていないと思われるからである。
 苗字の委文を「しとり」と読むのは問題ないが、その苗字の地が美作国倭文庄であるとの推定は的外れである。この時点で美作国倭文を苗字としているとすると、倭文氏は美作国の武士となるが、その可能性は低い。一方、白上尼の子と思われる景盛の名前が注目される。
 藤原氏田村来原家略系によると鎌倉初期に那賀郡来原別符の地頭に補任されて入部した資盛の子として、嫡子盛家と二人の庶子(盛次・有政)が記されている。有政のみ「盛」をその名に付けていないが、それは武蔵国越生郷地頭有平の養子となり、郷内岡崎村を譲られたからである。後に来原を苗字とする田村氏は石見国の武士ではなく、東国御家人であったことはすでに述べた通りである。そして越生郷一部地頭であった有政は承久の乱の恩賞として那賀郡宇津郷を得た。さらには有政の曾孫光氏が、伊豆国御家人狩野貞親が恩賞として得ていた那賀郡加志別符と岡崎村を交換して石見国内に入部してくる。光氏の姉妹の一人は周布氏惣領兼宗(西信子)の室となり、兼氏を産んでいる。兼宗は後室が産んだ兼長を嫡子としたが、最終的には南北朝の動乱の中で、反幕府方となった兼氏が惣領となる。兼氏は庶子兼仲を来原氏の養子としたが、後に嫡子氏連が筑前国の合戦で死亡したため、兼仲を後継者とし、結果的には来原氏領を併合している。
 話を戻すと、系図には、資盛の庶子盛次は兄盛家から白上郷を譲られたとしている。前には白上郷もまた周布氏領となったために、このような記載がなされ、事実ではなかろうとしたが、前述のように、白上村半分等を宗景に譲ったのは父景盛であった。「盛」をその名につけていることから田村氏の一族で白上郷をゆずられた盛次の子であろう。白上尼の名は盛次の室となり、白上郷に居住したことに由来するものである。この尼が委文氏の出身であったのだろう。早くに父景盛を失い祖母に育てられた宗景は祖母方の委文氏を名乗ったため、来原田村氏特有の「盛」をその名に付けていない。

 

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