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2019年1月24日 (木)

俣賀致弘について1

 以前、高校生向の島根読本の中で、本文だけでなく興味を引くようなコラムも入れるとの方針が出されたので、いくつか入れた。本因坊道策の原稿には「波乱の大会」(全国高等学校囲碁選手権で出雲高校が優勝候補を破って優勝したのを、日本棋院発行の『囲碁年鑑』がこの題名で報じた)を、益田氏の原稿には「間違えられた人」と題して、戦前に郷土の忠臣とされた内田致景が、実は幕府方で、南朝方として豊田城に立て籠もったのは父朝員の養子(娘聟)致員(母は内田氏惣領致直の娘)であることを述べた。
 同様に間違えられた人が俣賀致弘である。『中世益田・益田氏関係史料集』(以下では史料集の番号を記す)にも「内田左衛門三郎」(俣賀家文書分のみ、内田家文書の同時期にみえるのは致景の嫡子致世である)に「致弘」の注記がたくさんあるが、「致治」の誤りである。193号の内田左衛門三郎も俣賀家文書なので致世ではなく致治である。201号の内田左衛門三郎は俣賀熊若丸と同一人物であり、「致弘」ではなく「致治」である。224号により「俣賀左衛門三郎致治」であることは明白である。
 致弘の初見史料は正平六年一〇月八日常陸親王令旨の宛所「俣賀兵庫允」である。尊氏が直義に対抗するため南朝に下さった八月以降、令旨が出されるようになり、直義は北陸に逃れている。致治と致弘は尊氏方であったが、その後、南朝との和睦が解消された時点で、その対応は分かれる。文和二年正月一〇日には、守護荒河詮頼とともに石見国の幕府方の中心であった吉見範直が俣賀兵庫助(允ヵ)に対して最初から幕府方として戦功を上げてきたことを注進することを伝えているが、正平一七年には南朝から兵庫允致弘を兵庫助に補任する口宣案が出されており、致弘は幕府方から南朝方に転じたと思われる。これに対して致治は「内田左衛門三郎」のままであり、幕府方であった。石見国では大内弘世が幕府に帰順する貞治二年九月頃までは、反幕府方が優位に立っていたが、これ以降、幕府に帰順する国人が続出し、幕府から所領を安堵される。
 貞治五年には石見守護山名義理の使者が四月二五日奉書に任せて内田左衛門三郎に所領を打渡している。四月二八日には俣賀村地頭職(守護使長経)、二九日には横田下村内俣賀分領(守護使貞遠)である。八月一九日には守護使道源と上使忠基の連署で、俣賀村地頭職と吉田郷内女子分を打ち渡されている。横田下村はみえないが、吉田郷女子分とは光阿跡須子村内名田畠である。これに対して、反幕府方であった致弘への打渡状は残っておらず、代わりに八月一〇日に譲状を作成し、嫡子道祖丸に俣賀村地頭職と横田内田畠等を譲与している。

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