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2019年1月 4日 (金)

出雲守源光隆の背景1

 過去に二度述べているが、三たびとりあげる。大治五年一〇月二七日に源光隆が出雲守に補任されたのは、院近臣で播磨守であった藤原基隆が従三位に叙せられ公卿となったことによることはすでに述べた。後任の播磨守には讃岐守家成が補任され、基隆の子で出雲守に補任二年たらずであった経隆が讃岐守となった。ただし、讃岐守も院近臣の指定ポストであり、父基隆が知行国主であったと考えた。
 日記の記事を拾い読みしての見解であったが、よく読んでみると、別の面も明らかになる。先ず、基隆が従三位に叙せられたのは、後に六勝寺の一つとされた待賢門院の御願寺円勝寺(白河にあり)に対して、女院が郊外(都の北西)の仁和寺の地に隣接して本当の意味での自らの御願寺として造営・整備を進めた「仁和寺御願寺」を造営したことに対する勧賞であった。同年二月に上棟があり一〇月には完成し、数ある候補から法金剛院の名前が採用された。当初は二一日に供養が予定されていたが、基隆の家でケガレが発生する事態となったため、延期して二五日に行われた。同日には基隆が従三位に叙せられ、絵仏師明源が法橋とされた。造進を行った基隆に対して、事業の進行を統括したのが、待賢門院庁の筆頭別当である治部卿源能俊であった。
 二七日に二五日の賞を受けた小除目が行われ、御堂の祈祷を行った陰陽使二名への勧賞とともに、公卿となった基隆が手放した播磨守に代わるものとして、その子である出雲守経隆の讃岐守遷任と鳥羽院近臣筆頭藤原家成の播磨守補任が行われた。そして女院庁筆頭別当源能俊の晩年の子で七才ないしは九才であった子を元服して光隆と名乗らせ、経隆の後任の出雲守に補任した。光隆の父能俊が出雲国知行国主となった可能性もあるが、能俊が長承三年に死亡しても光隆の地位に変化はないので、待賢門院が出雲国の分国主となったとすべきである。
 光隆が出雲守となったことに関係する記述が『長秋記』大治五年九月一日条に見えるが、九月末に続くのは一一月の記事であり、現在のところ一〇月分は発見されていないようである。

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