koewokiku(HPへ)

« 藤原朝定と仮殿遷宮2 | トップページ | 秋山版活碁新評 »

2018年12月 3日 (月)

藤原朝定と仮殿遷宮3

 仮殿造営中の前年八月には在庁官人が光隆に解状を提出していた。鳥羽院政期に寄進地系庄園が増加したとされるが、実際には嘉承二年七月の堀河天皇の死により白河上皇が実権を握って以降に、院や天皇の御願寺への寄進が増加している。出雲国でも同様であり、在庁官人等は公領のみならず庄園が負担しなければ大社造営は困難であるとの危機意識から解状を提出した。光隆も康治二年二月八日には政府に造営に協力することを命じた官宣旨を出すことを求め、三月一九日には政府がそれを認めている。その効果があったのか、康治元年一二月の材木採取開始から二年一一ヶ月後の久安元年一一月二五日に正殿遷宮が終了した。光隆の国守補任から六年一一ヶ月後であった。
 これに対して、出雲守藤原朝定とその父で知行国主である朝方による仮殿遷宮が行われた治承三年一一月一九日は、国守補任から二年五ヶ月後であり、顕頼時の一〇ヶ月よりは長いが、光隆時の三年一一ヶ月よりは短い。章俊時については、治暦元年(一一六五)一月に造営のため延任しており、康平四年一月に出雲守に補任された可能性が大きい(『松江市史史料編3古代・中世Ⅰ』の出雲国司表による)。とすると、国司補任から仮殿遷宮までの期間は一年四ヶ月となる。以上を勘案すると、造営のために朝方・朝定父子が出雲国に還任しており、仮殿造営に着手する前に顛倒があった可能性は十分にある。
 以上、建久元年の正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮は治承三年一一月一九日に行われたことと、仮殿造営前に顛倒があった可能性が高いことを指摘した。 

« 藤原朝定と仮殿遷宮2 | トップページ | 秋山版活碁新評 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 藤原朝定と仮殿遷宮3:

« 藤原朝定と仮殿遷宮2 | トップページ | 秋山版活碁新評 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ