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2018年12月 3日 (月)

藤原朝定と仮殿遷宮2

 出雲守となった顕頼は三月に杵築社造営を申請し、一〇月三日に朝廷の許可を得ると、一〇月八日から仮殿造営の為の材木の伐採が開始され、早くも一月後の一一月九日には仮殿遷宮を終えている。国司補任から一〇ヶ月である。前回の国守藤原章俊による康平五年四月二二日の仮殿造営の場合は、前年一一月二九日に本殿が顛倒したことで着手された。一旦、御神体を舞殿に遷した上での造営であり五ヶ月を要した。その後、正殿造営の材木採取が始まったが、造営に必要な巨大な材木が国内には見当たらなかったため、供給可能な地域を探して、天永元年七月に因幡国等から材木がもたらされた。これで造営が軌道に乗り、天永三年六月一八日に正殿遷宮が終了した。正殿造営開始から三年七ヶ月、国守補任から四年半であった。
 保延四年一二月二九日、源光隆と藤原光隆の間で出雲国と安芸国の相博が行われ、藤原光隆が出雲守となった。実力者である父藤原清隆が知行国主であった。源光隆は待賢門院の分国である出雲・安芸両国で国守を務めた。出雲国が別の人物を国守として院分国であり続ける可能性もあったが、杵築社造営が現実の問題となったため、安芸国に遷されたものであろう。この点は後白河の院分国のもとで出雲守となった藤原能盛が周防国に遷任したケースと同じである。
 仮殿造営開始前の保延七年六月七日に本殿が顛倒し、一時的に修造した竈殿に御神体を遷した上で、仮殿造営が開始され、顛倒から一年五ヶ月半後の永治二年一一月二一日に遷宮が終了した。章俊のケースよりも一年間余計にかかった原因については不明である(一一月二五日の島根県中世史・近世史合同研究会で発表した際の資料では五ヶ月半後の遷宮としていたが、訂正する)。国司補任後から三年一一ヶ月が経過しており、一二月一日に正殿造営の材木採取を開始した直後に重任して事業を継続したと思われる。

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