koewokiku(HPへ)

« 因幡守藤原通基2 | トップページ | 出雲守源光隆の背景1 »

2018年12月27日 (木)

長承元年の国司人事

 『中右記』長承元年一月一九日条には翌日の除目に関して協議され、尾張・越中・伯耆・出雲・備後・周防・讃岐の七ヵ国と因幡・備前・武蔵三ヵ国の扱いが決まった。三ヵ国は重任となったことが明記されているが、七ヵ国(あるいはそれ以上か)についてはその決定部分が判読不能となっている。二二日に発表された除目では、山城・河内・伊豆・佐渡守が新たに補任されており、七ヵ国については国守の変更はない。とりあえず、国毎に確認する。
 尾張守は大治二年正月に藤原長親が重任した二期目の任期が長承元年始めまでであったが、その途中で藤原顕盛に交代したので、延任とされたのであろう。両者の父長実の知行国であった。越中守も大治四年一二月に前任の藤原公能の任期途中の辞任により、藤原顕長が補任されていた。公能は徳大寺実能の嫡子であったが、辞任の時点で一五才であり、知行国主実能側の都合であろう。後任の顕長は藤原顕隆が四七才時の子で一二才であった。公能の母もまた顕隆の娘であった。伯耆国は藤原長実の知行国であったが、大治二年末に同じ知行国である尾張国との間に相博がなされ、子長親が国守であった。出雲国は在任二年足らずの藤原経隆から前年一〇月二七日に源光隆に交代したばかりであった。その時点から待賢門院の分国となっていた。備後国もまた長実の知行国でその子時通が国守であった。周防国は藤原憲方が国守であったが、その父為隆が知行国主であった。讃岐守は出雲国から遷任した藤原経隆であったが、その父基隆が知行国主であった。
 重任となった三国も、因幡は西園寺通季の知行国、備前は平忠盛の知行国、武蔵は前述のように待賢門院の分国であった。とすると、一〇国はすべて院分国ないしは知行国で、任期がきた国については重任の手続きをし、七ヶ国については国守交代の時期ではないことを確認したものであろう。

« 因幡守藤原通基2 | トップページ | 出雲守源光隆の背景1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 長承元年の国司人事:

« 因幡守藤原通基2 | トップページ | 出雲守源光隆の背景1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ