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2018年12月 3日 (月)

藤原朝定と仮殿遷宮1

 建久元年の杵築社正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮の年次については、弘安四年の出雲義孝申状に安元元年〈一一七五)一一月一九日とされ、その時点では出雲宗孝が国造兼神主であったとする。併せてそれに先立つ承安二年(一一七二)一〇月一〇日に本殿が顛倒したと記されている。これに関連して安元二年一〇月日出雲国司庁宣がある。出雲宗孝が平治年間頃に国造職を一族の兼経に申し付けるよう国司に要望し実現したが、兼経が死亡したことにより、国司が宗孝を国造に補任したものである。
 この庁宣が偽文書であることは何度も述べている。兼経の前任の国造兼忠は平治年間には健在であり、国造家譜をみても、天承元年(一一三一)から仁安三年(一一六八)までの三八年間国造の地位にあった。次いで兼経が仁安三年から安元二年までの九年間国造であり、宗孝が国造となったのは安元二年であった。よって安元元年の仮殿遷宮時に宗孝が国造兼神主であったとする義孝申状の記載は誤りである。
 仮殿遷宮の年次そのものについても、承久二年の杵築社政所注進状には「承安元年一一月一九日」とある。ただし、「従久安元年至今年暦卅四年」と矛盾している。三四年後を重視すれば治承三年となる(建久元年の正殿遷宮が四五年後とあることによる)。これと関連するのが、出雲守藤原朝定が治承五年三月六日に杵築社の修造が完了していないとして重任宣旨を与えられていることである。朝定は治承元年六月二八日に、後白河院分国下で国守であった藤原能盛が周防国に遷任したことにより、石見国から出雲国に遷任・復任した。能盛が四年任期を半年残して遷任したのは杵築社造営が現実の問題となっていたからであろう。
 出雲守藤原家保が杵築社造営の開始と自らの重任を求めていたが、朝廷はそれを認めず、嘉承三(天仁元)年正月に藤原顕頼に交替させた。顕頼は一四才であったが、知行国主となった父顕隆は左大弁で実力者であった。顕隆の父為房は白河院の養女となり寵愛を受けていた璋子(待賢門院)の母光子の兄弟であった。光子は堀河・鳥羽両天皇の乳母となり、自らが二位に叙せられたように大きな影響力を持った。光子の娘で璋子の姉である実子も鳥羽の乳母となり、光子の産んだ通季・実能を祖とする西園寺家と徳大寺家は中世を通じて公家社会で高い地位を維持した。

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