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2018年12月

2018年12月27日 (木)

長承元年の国司人事

 『中右記』長承元年一月一九日条には翌日の除目に関して協議され、尾張・越中・伯耆・出雲・備後・周防・讃岐の七ヵ国と因幡・備前・武蔵三ヵ国の扱いが決まった。三ヵ国は重任となったことが明記されているが、七ヵ国(あるいはそれ以上か)についてはその決定部分が判読不能となっている。二二日に発表された除目では、山城・河内・伊豆・佐渡守が新たに補任されており、七ヵ国については国守の変更はない。とりあえず、国毎に確認する。
 尾張守は大治二年正月に藤原長親が重任した二期目の任期が長承元年始めまでであったが、その途中で藤原顕盛に交代したので、延任とされたのであろう。両者の父長実の知行国であった。越中守も大治四年一二月に前任の藤原公能の任期途中の辞任により、藤原顕長が補任されていた。公能は徳大寺実能の嫡子であったが、辞任の時点で一五才であり、知行国主実能側の都合であろう。後任の顕長は藤原顕隆が四七才時の子で一二才であった。公能の母もまた顕隆の娘であった。伯耆国は藤原長実の知行国であったが、大治二年末に同じ知行国である尾張国との間に相博がなされ、子長親が国守であった。出雲国は在任二年足らずの藤原経隆から前年一〇月二七日に源光隆に交代したばかりであった。その時点から待賢門院の分国となっていた。備後国もまた長実の知行国でその子時通が国守であった。周防国は藤原憲方が国守であったが、その父為隆が知行国主であった。讃岐守は出雲国から遷任した藤原経隆であったが、その父基隆が知行国主であった。
 重任となった三国も、因幡は西園寺通季の知行国、備前は平忠盛の知行国、武蔵は前述のように待賢門院の分国であった。とすると、一〇国はすべて院分国ないしは知行国で、任期がきた国については重任の手続きをし、七ヶ国については国守交代の時期ではないことを確認したものであろう。

因幡守藤原通基2

 保安二年に炎上した園城寺講堂再建の料所として同寺の檀那であった通季が国務を執っていた加賀国を充てたことはすでに述べたが、この時期の加賀守を確認すると元永元年(一一一八)一二月二九日には二三才の同母弟徳大寺実能が補任され、次いで保安二年閏四月一一日には二〇才の異母弟季成が補任されている。通季が国務をとっていた二期八年とは、二人の弟が国守であり通季は加賀国知行国主であったことになる。そして大治二年(一一二七)正月一九日には二一才の院近臣藤原家成が後任の加賀守に補任され、加賀国は鳥羽院分国となった。加賀国の交代から因幡国の獲得まで一年弱あいているが、その意味を説くカギは、持明院通基が武蔵守から因幡守に遷任していることである。通基の武蔵国補任時期は不明であるが、武蔵守の後任が藤原公信であることが注目される。公信の祖父保実は西園寺通季や待賢門院の父である公実の弟で、公信の子実清は崇德院の殿上人で、崇德院庁の別当となり、保元の乱で崇德方となっている。そして公信の後任として武蔵守に補任された藤原信輔の室は通基の娘で、信輔の母は公実の娘であり、通基・公信・信輔が武蔵守に補任された時期の武蔵国は待賢門院の分国ではなかったか。通基は女院分国武蔵の国守から、女院の同母兄通季の知行国因幡の国守に遷任したことになる。
 なお、信輔の後任の武蔵守は藤原季行であり、美福門院の分国となったと思われる。待賢門院の分国は実子崇德が退位し、美福門院の産んだ近衛が即位すると、摂関家の知行国や他の院分国に変更されている。季行は鳥羽院並びに待賢門院の別当となった敦兼の子であるが、その娘が美福門院が産んだ皇女(高松院)の乳母となっている。
 県史に国司の交代記事をすべて掲載するのが望ましいが、鳥取県史ではスペースの制約から重要な物に限定し、その他は国司関係史料の一覧表にまとめている。とはいえ、これまで述べたように表の比定が誤っている場合もあり、県史のHPで割愛した史料が閲覧できるようになっているとよい。今回は幸いにも関係史料をネット上で確認できたのでよかったが、閲覧が容易ではなく、所蔵機関に直接行くしかない場合もある。当然県史編纂時には関係史料の写真も作成されており、その保存と公開も重要である。

因幡守藤原通基1

 大治二年一二月七日に因幡守に補任された藤原(持明院)通基について、「国司一覧」(『日本史総覧』)は長承元年正月一九日に重任し、同年一一月二三日まで現任が確認されるとしている。これに対して鳥取県史の「国司一覧表」では通基の現任が確認できるのは大治五年一一月四日までとし、長承元年一月一九日に重任している国守は西園寺通季だとしている。関係史料を確認してみる。通基は、正五位下中務大輔で陸奥守と鎮守府将軍を兼任した基頼の晩年の子であるが、その妻が待賢門院女房(上西門院乳母)であった関係で、その娘が待賢門院の甥である西園寺公通や三条実綱と結婚している。
 長承三年二月二四日には通季の嫡子西園寺公通が補任されている。この公通の嫡子実宗の母は持明院通基の娘である。大治四年一一月四日の現任を示す『時信記』同日条は県史史料編では省略されているが、ネット上で国文学研究資料館所蔵の画像で確認した。日吉行幸の記事で、出車三両を備中守藤原忠隆・土佐守藤原家長とともに、「因幡守通基」が負担している。これも県史では省略された『知信記』天承二年二月二八日条を宮内庁書陵部の画像データで確認すると、関白忠通が行った法成寺両塔供養の中で大殿(忠実)が加えた布施の内、導師への布施一五疋を因幡守通基朝臣が取ったことが記されている。さらには同年一一月二三日の五節雑事の「几帳帷」について「因幡通基」が一帖負担している(『中右記』)。
 以上のように、鳥取県史の理解とは異なり、因幡守の名前が確認できる史料ではすべて「通基」となっている。これに続く記事は『公卿補任』の西園寺公通に関するもので、長承三年二月二四日に因幡守に補任されたことが記されている。すでにみたように、公通は通季の嫡子で、持明院通基の娘を正室としていた。ただし、長承三年の時点では公通は一八才であり、父通季が知行国主であった可能性が大きい(通季は死亡しており、待賢門院分国である)。

2018年12月20日 (木)

杵築大社神主補任状から8

 文治五年二月二二日には、頼朝が義経に与同しているとして、知行国主藤原朝方、その子で国守の朝経、目代の兵衛尉政綱の解任を朝廷に要求した。その結果、四月五日に政綱が頼朝が派遣した北条時定に引き渡され、一三日には朝方・朝経父子も解任された。その方針が朝廷から伝えられると、頼朝は前言を翻し、杵築大社造営に当たってきた父子の解任は不憫であるとし、政綱以外の人物を目代にすれば還任を容認することを伝えてきた。すでに述べたように、杵築大社造営は領家藤原光隆と知行国主藤原朝方に頼朝が協力し、神主資忠を中心に行われてきた。朝方の目代であった東国御家人政綱を解任したのは残念ではあったが、協力関係は維持するとの意向であった。
 本ブログでは政綱は目代であるとともに初代出雲守護であったとの説を提示しているが、その後任は誰であったろうか。目代を兼務したかは不明であるが、出雲国内に所領を得ていた佐々木高綱がその有力候補であろう。苗字の地である乃木に現在の善光寺の前身となる御堂をもうけ、大山寺には等身地蔵を建立している。その子光綱は承久の乱以前には出雲国の有力在庁官人朝山惟綱の娘と結婚して子高定をもうけている。高綱は信仰との関係で建久六年には家督を嫡子重綱に譲って出家したが、その後任の出雲守護が安達親長であろう。

杵築大社神主補任状から7

 建久元年の杵築大社造営は知行国主・領家・幕府の協力のもとに内蔵資忠を神主に補任して初めて行い得たものであった。それが故に、その記録を国造家は廃棄し残さなかった。佐伯氏のこの問題に関する見解は次のとおりである。「建久の遷宮で完成する杵築大社の造営事業は、先の神殿が倒壊した正(承)安二年から数えて一八年もの長きにわたった再建事業であった。」「建久元年十月十八日、杵築大社では、ようやく正殿造営を遂げることができたのである。」「(反発の原因は)資忠と武士(鎌倉幕府)との関係が深かったこと、そして、資忠が建久の遷宮で神主職としての役目を果たす能力がなかったことの二点である。元暦二年からこの時期にかけて東国を本拠とする幕府がその勢力を扶植しようとするものの、もともと出雲国内にコネクショを持たなかったため、忠光以来のいきさつがあった資忠と結びつきこれを利用したというのが真相ではないか。」以上の説が根拠を欠いたものであることは明白であろう。国造が遷宮の際に御神体を抱懐することと、杵築大社造営中に神主資忠が二度も鎌倉の頼朝もとを訪れているのは問題であることを理由として、後白河院を通じて領家光隆に働きかけ、建久元年六月の遷宮の直前に、国造孝綱が神主に補任された。知行国主・領家・幕府の協力体制に少しずつ亀裂が生じつつあった(隠岐国については隠岐守藤原惟頼再論ですでに述べたので省略する)。

杵築大社神主補任状から6

  頼朝と領家藤原光隆の関係はマクロ的にはともに待賢門院流に属するという共通点があるが、ミクロ的には頼朝の父義朝の母が、光隆の祖父隆時の姉妹であることがあった。頼朝の父義朝は光隆の父清隆(待賢門院別当)の従兄弟であった。待賢門院流は保元の乱で分裂したが、結果的には崇德院とその一部の関係者が没落したのみで、その後は上西門院と後白河院を中心として存続した。頼朝が日野資憲を介して結びついていた内蔵資光を推薦したことを領家光隆が受け入れたのは当然であった。頼朝の支援が期待できる資忠を起用することで、当時進行していた杵築大社造営への幕府の協力を得ることも期待された。知行国主藤原朝方の母は叔母(祖父顕隆の娘)であったが、当初清隆と結婚し、後に朝隆との間に朝方を産んでいた。
  井上寛司氏により、杵築大社領は光隆を領家として成立し、次いで鎌倉幕府の介入に対抗するために後白河院に寄進されたとの説が提示された。これには大山喬平氏が主張した文治国地頭論も影響し、この時期には幕府は杵築大社領に介入できたとの理解に基づくものであったが、現在では文治国地頭論そのものを否定する説が有力で、仮にあったにしてもその権限が井上氏が想定したほど強大でなかったことは明らかである。幕府権力の出雲国への浸透は、当初は頼朝との関係の深い知行国主藤原朝方に、東国御家人兵衛尉政綱を目代に起用させる形で開始された。それとともに、杵築大社神主に内蔵資忠が補任されたが、それは知行国主と領家にとっても利益につながるものであった。
 井上氏の理解は二〇〇四年の拙稿を受けて修正されたが、ここでも佐伯氏は井上氏の旧説に固執している。「一一六〇年代に大社領が、久安の大社造営にたずさわった経験があった藤原光隆に寄進され、さらに後白河院に寄進され、本家後白河院・領家藤原光隆の支配が形成されたと推測している。」「朝方が知行国主となった後、朝方らによって杵築大社およびその社領の天皇家領庄園化(後白河院領化)がはかられ、内乱後になって鎌倉に対する政治的配慮などから光隆が領家と定められたという可能性もあろう。」氏の説には根拠を欠くという大きな問題点があり、単なる憶測の域を出ていない。その背景として、氏は治承・寿永の乱が出雲国に与えた影響についての認識が欠けていることがある。

杵築大社神主補任状から5

 揖屋社と飯石社は成勝寺領となったことで、保元の乱で崇德院が敗れ配流された影響は最小限であったろうが、崇德院庁分となった杵築大社領は、一旦国衙領に戻された上で、後白河院に再寄進され、出雲守として杵築大社造営を行った経験を有する藤原光隆が領家となった。神主には国造兼忠が補任された。国造と神主を兼帯したのはこれが初めてであった。
 国造兼忠が亡くなると、国造家一族の兼経が国造を継承したのに対して、神主は請文を出したものの中から領家が補任した。そうした中、兼忠の妹を妻とし、出西郷・富郷開発の中心であった一族の出雲孝宗が神主に補任された。孝宗は出雲氏の一族という点では内蔵氏と同じであったが、国造家との外戚関係を有していた。Bの中では兼忠が孝房の伯父と呼ばれ、兼忠の父兼宗が祖父と呼ばれているのはそのためである。兼忠の父頼兼ではなく、国造国経を曾祖父と呼んでいるのは、国経の娘が兼宗との間に産んだ娘が宗孝の妻であったからであろう。次いで国造兼経が死亡し、その子が幼少であったため、孝宗が国造にもなった。二人目の国造兼神主であった。その子孝房も神主に補任されたが、文治二年には更迭され、幕府を開いた源頼朝の推薦を受けた内蔵資忠が神主に補任された。一方、国造については、元服した兼経の子石王冠者が権利を主張した。神主と国造それぞれをめぐる対立が生まれたのである。
 内蔵資忠の神主補任は、平治の乱で頼朝が伊豆に配流された際ないしはそれ以降の資忠の大功 によるものであった。因幡国在庁官人で高庭介であった長田資経の子実経は頼朝が配流される際に一族の資家を派遣した恩により、平家方であったにも関わらず、所領を頼朝から安堵された。
  因幡国在庁官人と崇德院の側近日野資憲の関係の背景としては、大治三年から永暦二年までの国司(国主・国守)がいずれも待賢門院関係者であることであろうか。藤原通基の妻は待賢門院女房で、上西門院の乳母であった。次いで待賢門院の同母兄西園寺通季が国主、その子公通が国守となっている。藤原季行は待賢門院別当敦兼の子である。藤原信輔は待賢門院の姉妹を母とし、盛隆は信輔の娘を母とし、盛方は待賢門院別当であった平忠盛の娘が母である。

杵築大社神主補任状から4

 内蔵忠光は崇德上皇の院庁判官代や別当を務めた側近日野資憲の叔父資光との関係を深め、自らには「光」、子には「資」の一字をその名に付けていた。その関係は大治五年(一一三〇)から保延四年までの八年間に出雲国が崇德院の母待賢門院の分国となった際に形成された。待賢門院庁の判官代が日野資光で、その跡を継承したのが、平忠盛の妻として知られる池禅尼(宗子〉の兄宗長であった。久安元年(一一四五)年に待賢門院が死亡すると、その所領の大半は崇德院が管理するところとなった。その院庁の中心が日野資憲であり、同年には崇德天皇の御願寺成勝寺に意宇郡揖屋社が寄進され、庄園として立券された。その領家となったのが資憲であるが、資憲は叔父資光の娘で待賢門院の女房であった阿波を妻としていた。阿波は待賢門院の死後は崇德院女房になっている。成勝寺には仁安二年に飯石郡揖屋社が寄進されているが、寄進者である法成寺執行増仁は摂関家氏寺法成寺執行隆尊の子で、その母は不明だが、兄弟の信朝法橋と行光は待賢門院女房但馬(高階為家女子)が母であった。また、増仁の姉妹讃岐宣旨は勧修寺流藤原為房の晩年の子朝隆・親隆の母であった。為房の姉妹光子は閑院流藤原公実の妻で、待賢門院、西園寺通季、徳大寺実能を産む一方で堀河天皇とその子鳥羽天皇の乳母となり、従二位に叙せられ、政治的影響力を有した。
 勧修寺流は嘉承三年(一一〇八)年に為房の子顕隆が出雲国知行国主(国守は子顕頼)となり、その後も顕隆の兄為隆(国守は子憲方)、弟の親隆(国守は甥で養子の朝親)、親隆の兄朝隆の子朝方(国守は養子の朝時、実子の朝定・朝経)が知行国主となっている。とりわけ叔父親隆の跡を継承した朝方は三〇年間以上、出雲国知行国主であり、建久元年遷宮の造営にあたった。

 

杵築大社神主補任状から3

 話を戻すと、一宮杵築大社の経済的自立性を高めるために、治暦三年以降、正殿遷宮時に国司が公領を杵築大社に寄進する形をとった。次いで杵築大社領が寄進され、庄園として国衙から独立した存在となり、神事も原則的には領家と神主のもとで国造が行う形となった。一方、最大の神事である三月会については、国内の所領が順番に頭役を負担した。これに対して三〇数年に一度の杵築大社造営は領家・神主のみで行うことは不可能であり、国衙目代が領家・神主と連携して進めていった。造営関係史料の内、国衙作成分は国衙でも保存された可能性があるが、最終的な保存主体は政所である。それがゆえに、承久二年六月に国衙が政所に過去の造営事例を報告させた。それがAであった。
 それに対してBとCは一体のものである。Cについては『鎌倉遺文』の編者竹内理三氏がとりあえず関連する宝治二年の遷宮の状況を報告した建長元年注進状の前に配置し、その理解に対して疑問が出されることは無かったが、二〇〇四年の論文で、Bの解を作成する際の資料として写されたものであることを明らかにした。文治二年に国造出雲孝房に代えて、内蔵資忠が神主に補任された。資忠の父忠光は一二世紀半ばに杵築大社領を崇德院に寄進した際の中心人物で初代神主に補任されていた。後に国富郷地頭に内蔵資忠の子孝元が補任されたように、出雲国在庁官人出雲氏の一族で、神事などに使用する神宝や神具の管理に当たり、経済力を持っていた。資忠が神主の一方で隠岐国在庁であったように、出雲・隠岐両国にも勢力基盤を有していた。

杵築大社神主補任状から2

 Aについて山岸氏は杵築大社の遷宮がほぼ三十年周期で行われていることを主張する内容であり、その趣旨に合わせるべく史実を改ざんしている可能性があると述べたが、その評価は適切であろうか。Aの性格についてはその冒頭に、杵築大社造営について在庁并社頭での訴えが多発しているとして、国衙から六月中旬に奏聞があったことに対する報告であることが述べられている。作成主体は国衙ではなく、杵築大社政所である。政所は本来、国衙組織の中で一宮杵築大社の管理にあたっていたが、杵築大社領が立券された時点で国衙からは独立した。杵築大社並びにその所領を支配するための組織であり、領家のもとで現地の責任者として補任されたのが神主であり、惣検校とも呼ばれた。両者は同じものに付けられた二つの名称であるるが、惣検校の権限の一部を分割して新たに権検校が新設されて以降は、権検校が総検校の下に位置するとの誤解を防ぐため、神主の名称が一般的に使われるようになった。後に神主と権検校の両方を国造が独占するようになると、権検校は神主の下に位置づけられ、それとともに惣検校の名称が復活した。
 二つの名称の関係について井上寛司氏の理解の一部に混乱がみられていたため、二〇〇四年の論文で整理して示したが、昨年出版された佐伯徳哉氏の著書では混乱が拡大している。すなわち、「神主職は神事の中心を担う職であり神社のトップである。また、総検校職は、その名称からは社内の庶務を総括する事務局長的な職であったと考えられ、いずれも神社内を総括する要職である。」と述べられ、神主は神事、惣検校は庶務を担うとされているが、名称に引きずられた誤解である。神事に関しては国造職があり、その上に立って神事と所領支配を行うのが神主=惣検校である。強いて言えば、惣検校職は国造側が最もよく使用し、領家並びに幕府は一部を除き神主職を使用している。

杵築大社神主補任状から1

 嘉禄二年七月 日領家藤原家隆袖判下文(千家家文書)により、出雲政孝が神主并本御領沙汰人職に補任されている。現在残る領家による国造への神主補任状としては最古のものである。これ以前の年紀を持つ文書は国造以外への補任状か、そうでなければ後に作成された偽文書である。これと関連するものが建治二年二月 日領家藤原兼嗣下文(北島家文書)で、そこには「去嘉禄造営之時、依無旧記及遅々之処、義孝親父国造政孝為十代造営日記文書所持之間、彼旧記他人不令帯之由載御下文、被補任政孝於神主職畢」と記されている。
 この記述については松薗斉氏が「出雲国造家の記録譲状作成の歴史的背景」で言及している。松薗氏は国衙の作成・保存した造営史料が国造の手に入り、徳治二年の出雲泰孝以降の譲状の記載内容の変化(造営日記・文書が記載される)に影響を与えたとする理解に基づき、疑問を呈している。政孝が所持していたとすれば、国衙作成史料が政孝以前のかなり前から国造家に伝来していたことになるが、それならばなぜ神主をめぐる対立でそれを主張しなかったかというのである。また、この点について山岸常人氏は、政孝の子義孝の段階の一三世紀中期以前に在庁官人が追放され、替わって国造が幕府御家人となって国衙に進出して造営関係記録を獲得したとされると松薗氏の研究成果をまとめた上で、政孝が記録を所持していたという引用は史実なのか疑わしい点があると述べている。
 松薗・山岸氏の理解は、造営関係記録の保存に関する事実を踏まえたものではなく、誤りである。A承久二年三月八日付で治暦三年二月一日以降の杵築大社の正殿遷宮と仮殿遷宮をまとめて報告した文書が残されている(北島家文書)。一方、B建久二年七月 日出雲国在庁官人等解でも杵築大社の正殿遷宮について述べられているが、山岸氏は前者より後者が信頼性が高いと評価している。これに従来C「治暦・永久旧記」と呼ばれた杵築大社造営遷宮旧記注進が、正殿遷宮が維持された時期の杵築大社の造営と遷宮を考える基礎資料となる。これ以降に作成されたものもあるが、その亜流にすぎず、その信憑性は前記三点より低い。

 

2018年12月17日 (月)

一二月の近況?4

 将棋竜王戦は決着を最終戦に持ち越し、羽生氏は勝てば史上初の公式タイトル獲得一〇〇(早碁等は除く)、負ければ二七年ぶりの無冠(一九八九年に初タイトル竜王を獲得するも翌年失冠し、一九九一年に棋王を獲得)となる。挑戦者は渡辺棋王と並んで現在最も成績の良い広瀬氏(三二勝一一敗、藤井七段などさらに勝率の高い棋士はいるが対戦相手の質が違う)であり、一方の羽生氏は本年度の成績は、二〇勝一九敗と苦しんでいる。客観的には戦前から挑戦者有利であったが、さすがに羽生という形で推移してきた。
 囲碁は井山氏が王座戦に勝利して公式タイトル四二として歴代一位タイとなり、一九日の天元戦(二勝二敗のタイ)に記録更新がかかる。現在二九才だが、羽生氏が四二タイトル時も二九才だったそうだ。これからが大変で、そこに羽生氏のすごさがうかがわれる。王座戦で公式戦初タイトル目前であった一力遼八段には大学に行かずに囲碁に専念すればよかったとの外野からの声もあるが、善悪は不明であろう。前にも述べたが中国の若手棋士は教育を十分受けず囲碁漬けの日々を送っており、勝っている時はよいが、次々と囲碁漬けの後進が登場してその地位の維持は大変である。現在では世界戦に勝とうと思えば、才能ある若手が中国のリーグに参加して普段から世界戦になれていないと難しい。持時間の使い方に大きな差があり、張九段が名人戦で久しぶりに井山氏を破り復位できた要因の一つは終盤に時間を余していたことであった。
 ともあれ、あと一週間すれば日の出時間が早くなる。すべてが「冬来たりなば春遠からじ」ならよいのだが、前述のように現在の心境は絶望ではないが、春がみえない心境である。

一二月の近況?3

 スズキ車は欧州・日本の両方でイマイチである。自動ブレーキも単眼カメラ+レーザー(安価)を単眼カメラ+ミリ波レーダーに変えるべきではないかと思うが、コスト面と実際の現場での差は少ないとの理由であろうか。安全性の評価点が低い一つの理由に過度な減量もあるのではないか。スイフトの現行車に対する設計経験者達のコメントとしてあと二〇キロ重くして設計すれば更に良くなったのではというものがあった。先代・先々代のスイフトは欧州でも高く評価されたが、現行モデルはそうでもない。現会長の娘婿が中心となって先々代のモデルを開発したが、二〇〇七年に惜しまれつつ病死してしまい、会長の息子が社長となっている。
 軽の二カメラタイプ(ハスラー、旧アルトのプラットフォームを使用)は遠からずモデルチェンジするためか、自動ブレーキには変更が無い。イグニスは新プラットフォーム(ソリオと共通のAセグ)であるが、これも変更がない。最近、マイナーチェンジでミリ波レーダーのみのタイプから変更したエスクード(もうひとつSクロスもあるが、こちらはCセグでやや大きいが、自動ブレーキは一切採用していない。海外では評価が高いというのが不思議)と同様、単眼カメラ+レーザータイプ(Bセグのスイフトと同様に、ミリ波レーダータイプのACCを別に装備)に変更するのか、それともソリオと同様、二カメラタイプの性能アップをするのは不明である。ソリオの衝突性能が、当ブログで繰り返し批判してきたダイハツのトール(旧型のものを使い古したパッソのプラットフォーム)より劣っていたのには驚いた。

一二月の近況?2

 ある自動車評論家が最近ではマツダとボルボの日本カーオブザイヤー受賞が目立つとの記事を書いていたがその趣旨がよく理解できなかった。ともに欧州での受賞歴は無い。以前はイタリア(フィアットが九度)・フランス(ルノーが六度)勢が強かったが、近年はドイツ車の受賞が目立つ。マツダも独創性とその技術は評価できるが、最近の日本での販売は不振である。ユーザーこそ大きな問題がありそうだが、マツダの方も考える余地はあるのではないか。
 車については、欧州と日本の安全性のテスト結果をネット上で確認できる。テストを受けた車に限定されるといううらみはあるが、これも選考の材料とすべきである。ただし、軽自動車と大型車には埋めることのできない差があり、価格による配慮も必要である。自らの車も欧州でのテスト結果が思ったほど良くなかったとの記事を過去に読んだ。子どもの車としては不本意(背の高すぎる車との意味)ながらNボックスにしたが、それは他の車がそれ以上にイマイチであり、長く乗るであろう車で現時点で安全性からすれば他の選択はなかった。スズキのスペーシアは背が高すぎないという利点を無意味な広さを求めるユーザーの声のおされてしまった。また、日本での側面衝突の検査の映像も公開されているが、Nボックスとは明確な差があった。現時点ではNボックス(その後に出たNバンは自動ブレーキはさらに進化したよう)が安全性面では最も優れた軽であるようだ。
 自動ブレーキのみに限れば、日産リーフ用の一部機能カット版を新たに搭載した三菱・日産車と二カメラの方式を残しているスズキ車までがまずまずであるようだ。設計経験者達のコメントでは、スペーシアを買うなら在庫が残っている旧モデルだというものであった。子どものNボックスは購入三ヶ月で高速道路進入路に入る前で安全確認のため停車中に軽く追突されたが、後部はかなりのダメージを受けた。以前なら板金修理ですんだかもしれないが、リアカメラがある上に、オプションでリアカメラ・デ・プラス(車・人がいると警告)を付けており、修理には一月以上かかった。相手の希望する工場が修理したが、最終的には購入したホンダ店で確認した上で、納車となった。

一二月の近況?1

 見識無き無免許運転の人間の車が暴走しているのに、乗客の多くはそれをさほど問題とは思っていない。その理由は運転者は人間として信用はできないが、よりましだというのだからあきれてしまう(最悪なのに)。歴史関係の会で沖縄の問題について言及する人が三名あった。地元紙の扱いは三面で見識のなさにあきれるとの声もあった。「気づきから行動へ」とは人権問題を解決するためのスローガンであるが、問題は、「気づいても行動しない」とともに「気づくかどうか」(本人は気づいていると思い込んでいる事が多い)である。
 「悪法は法か」との有名な命題があるが、「日韓基本条約」にこそ当てはまる問題である。当時の韓国の政権は今の北朝鮮と同じ軍事独裁政権であった。ODA(政府開発援助)も軍事政権のもとでは悪用されるが、しかし援助を必要とする人に援助しないわけにもいかない。これに対して「日中共同声明」は、米そのものが中国との関係改善に動いていたため、二国間の交渉で結ばれた。賠償を放棄する代わりに経済援助をするというものであった。今年、中国の成長により、ODAは終了することで両国が合意した。日韓関係では条約締結から八年後の一九七三年八月八日に東京都内のホテルに滞在していた金大中氏がKCIAによって拉致された事件を忘れてはならない。当時の日本政府はそれを黙認し、米CIAが関与しなければ金氏は殺害されていた。第二次田中角栄内閣とニクソン政権時の事件であった。ハト派政権が黙認し、タカ派政権が救出したというのは何とも皮肉な話である。
 カーオブザイヤーという賞があるが、以前から本家の欧州と日本ではなぜこんなに違うのかと思っていた。販売台数の基準があるため、高級車・大型車の受賞が少ない本家に対して、日本では口の奢った評論家が「絶対的に良い」と思い込んだ車に投票する。その批判からRJCカーオブザイヤーが生まれたが、その存在感は低い。日本車ではマーチ(1993)、ビッツ(2000)、二代目プリウス(2005)、リーフ(2011)が欧州で受賞している。ただし、初代で受賞した三車はその後のモデルチェンジで顧客の評判やコストを優先しすぎて評価を下げた。日本車ではよくあることである。

2018年12月15日 (土)

隠岐守藤原惟頼再論3

 ここから、丹波国が摂関家知行国となり、惟頼が国守になった可能性があることがわかる。越後守が摂関家知行国下の国守源宗雅から平時忠子時実(建春門院分国)に交代した仁安元年八月二七日に惟頼が丹波守に補任されている。宗雅が越後守に補任された応保二年(一一六二)七月一七日の時点では摂関家当主は藤原基実であったが、永万二年七月二六日には二六才で死亡し、弟松殿基房が当主となり摂政に補任されている。惟頼は知行国主松殿基房のもとでの丹波守であったと考えられる。
 翌二年五月一九日には相模守藤原盛頼が遷任し、惟頼は「前丹波守」となった。その後承安四年正月二一日に惟頼が佐渡守に補任されている。佐渡国は、五味氏の一覧表から洩れているが、康治元年から保元元年までは藤原忠通の知行国であったことが確認できる。承安四年時点の佐渡国知行国主、安元二(一一七六)年正月三〇日に隠岐守に補任された際の時国知行国主は松殿基房であろう。
 問題はいつまで隠岐守であったかであるが、治承三年(一一七九)一一月一七日の平清盛によるクーデター時であろう。同年六月に清盛の娘で亡父基実領を管理していた盛子が死亡した。すると後白河と基房は所領を後白河の管理下に置き、一〇月には基房の子師家が基通を超えて中納言の昇進した。これをみて基通を摂関家当主として所領支配を続けようとした清盛が、福原から上洛してクーデターを起こしたとされる。当然のことながら、後白河は院政を停止され、幽閉された。基房も関白を解任され、大宰権帥に左遷された。これにともない隠岐国は平家知行国となり(これまでの研究では指摘されていない)、関係者が隠岐守に補任されたことは確実である。犬来・宇賀牧が平家領となったのはこの時点であり、それ以前は松殿基房の所領であった可能性が大きい。
 一一八三年七月に平家が都落し、源義仲が入京したが、一一月一九日には後白河院と対立する義仲がクーデターを起こし、基通に替わって左遷されていた松殿基房の子師家が摂政となった。これにより、隠岐守に惟頼が復任した可能性があるが、翌年一月には義仲が滅亡し、師家は解任され、基通が摂政に復帰した。平家のクーデターで初めて摂政となった基通は二〇才で高官の経験が不足しており、その補佐役として亡父基実の異母弟兼実が起用された。義仲滅亡後は基通の近衛家と兼実の九条家が摂関家の核となっていく。そうした中、惟頼は松殿家に代えて九条家との関係を強めていったと思われる。惟頼の最終史料は建久六年三月二一日の東大寺供養の参加者として「堂童子右」の中に「藤原惟頼」がみえるものであるが、娘が弁局が昇子内親王の乳母となったのは、その母が九条兼実の娘任子(宜秋門院)であったことによる。
 以上、藤原惟頼の動向をみることで、隠岐国犬来・宇賀牧が平家領となった背景が明確となったと思われる。課題としては惟頼と摂関家の関係がいつまでさかのぼるのかであるが、前述のように、院との関係と摂関家との関係は両立が可能である。

隠岐守藤原惟頼再論2

 そこで問題となるのが前司藤原惟頼がどのような背景で隠岐守に補任されたのかである。惟頼は保元元年一〇月二七日には後白河院の中宮となった忻子(徳大寺実能の娘)の中宮権少進に補任されている。その時に中宮権大進に補任されたのが叔父で重頼の父である重方であった。忻子はその直前の二三日に女御となる宣旨を与えられ、家司と職事が補任されているが、そこには宮内少輔重方と惟頼の父である前阿波守頼佐がみえていた。中宮となった際に頼佐からその子惟頼に交代した形である。その後、惟頼は仁安元年八月二七日には丹波守に補任され、次いで承安四年正月二一日には佐渡守、安元二年正月三〇日には隠岐守に補任されている。五味文彦氏のランクで言えば、丹波国は第二番目、佐渡国と隠岐国は第五番目である。普通なら最初に丹波守に補任される事はなく、知行国主のもとでの国守であったと考えられる。
 丹波国は藤原顕時の知行国であったとの五味文彦氏の説を前に紹介した。『顕広王記』仁安二年五月一九日条に相模・丹波が「相博」と記されていること、実際に相模守藤原盛頼が丹波守に遷任していること、惟頼の前任の丹波守藤原盛隆と仁安三年八月に相模守としてみえる藤原有隆が兄弟であることから、この前後の時期に両国の知行国主は盛隆・有隆の父藤原顕時であるとした。ただし、惟頼・盛頼と顕時の関係を示す点は不明である。何より、仁安三年八月二七日に、伊勢斎宮となった後白河院の娘惇子内親王の家司に補任された惟頼には「前丹波守」とあり、丹波守から相模守へ遷任していない。
 五味氏は摂関家の知行国を検討する中で、前述の説を提示した。越後と加賀が仁安元年七月と八月の除目で摂関家知行国から外れたが、それに替わる国は確認できず、摂関家知行国が五ヵ国から二箇所減少して三ヵ国となったことが明らかになったと述べたのである。これに対して惟頼は、文治二年四月二八日に松殿基房の子家房が中将となり拝賀を行っているが、その騎馬御共として源長俊と藤原惟頼がみえる。長俊は忠通の家司季兼の孫であり、長俊の子有長は惟頼の娘を妻(建久六年八月一三日に後鳥羽の皇女昇子内親王=春華門院が誕生した際に乳母となった「故前隠岐前司惟頼女弁局」と同一人物か)としている。また、同年一〇月七日には初めて摂政となった九条兼実が初めての着陣を行っているが、兼実に扈従した公卿の内、右大将良通(兼実嫡子)の前駈として「散位惟頼」がみえ、一一月二九日の良通の内大臣拝賀に扈従する三位中将良経(良通弟)の前駈に「同(散位)惟頼」がみえる。翌文治三年七月一〇日の内大臣良経の大饗には五位大夫(蔵人)として惟頼がみえる。以上のように藤原惟頼には摂関家家臣としての側面があったことがわかる。

 

隠岐守藤原惟頼再論1

 惟頼については、院政期の隠岐国司の問題や平家没官領犬来牧等の地頭兼預所従兄弟の藤原重頼との関係で述べたことがあるが、一から考え直してみたい。重頼については、とりあえず中村氏の論文があるので、最初に文治四年の問題に関係する点についてのみ言及する。
 文治四年、朝廷から頼朝のもとに隠岐守源仲国からの申状が届けられ、善処するよう要求された。頼朝は七月一三日に宮内大輔藤原重頼に対して、濫行に関する訴えがあったことを伝えるとともに、中村別符の問題は想定外であったとして、説明を求めている(『吾妻鏡』)。源仲国は後白河院の側近であり、訴えは院の対幕府の意向を反映したものであった。
 訴えは三点あり、一つは幕府御家人である隠岐国在庁資忠に関するもので、残り二点に重頼が関係していた。一点は隠岐国の旧平家領が没官領として頼朝に与えられ、重頼はその代官として預所と地頭を兼務していた。これについて、在庁等から道後の犬来牧と道前の宇賀牧以外は平家領ではなかったとして、没官領から除外して元に戻すよう訴えがあり、院も両牧以外への重頼の支配は濫行だとして、頼朝に返還を求めたものである。もう一点は中村別符に関するもので、前国司であった藤原惟頼の沙汰で重頼の支配するところとなったが、惟頼は重頼の従兄弟であり、その沙汰に異論が出されたのであろう。
 これを受けて頼朝は、隠岐国在庁に対しては両牧以外の重頼の沙汰を停止し、国衙進止とすべきことを伝え、また在庁資忠に対しては、国司の命令に従い上洛し、所当・課役の沙汰をすることを命じている。問題は頼朝がこのような下文を出すことができたのはなぜかということで、石井進氏の見解が通説となっているが、実は石井氏が留保として付した方が正解である。頼朝が隠岐国衙に命令する権限を持っていたというよりも、在庁資忠(杵築大社神主内蔵資忠と同一人物)と重頼が頼朝の御家人であり、今回の命令は院が求め了解しているものであるがゆえに、下文を発給したのである。
 次なる問題は、隠岐国に平家領が存在した背景である。この八〇年も前に、平正盛が隠岐守となった際に平家領となったとの説があるが、当時の正盛の置かれた立場を理解していない憶測である。両牧が幕府領となったのは単に牧の役人(年預等)が平家の家人であったのではなく、平家が庄園ならば領家以上の立場にあったことを意味している。これを踏まえるならば、平家が治承三年一一月にクーデターを起こして後白河院を幽閉した際に、後白河院の近臣領であった両牧が平家領となったと考えられる。

 

2018年12月11日 (火)

基隆と家保の差2

 家保が備後守から出雲守に希望して遷任している事も、出雲国が五味氏の評価した五番目のランクではないことの根拠となろう。養父匡房とともに、堀河天皇の乳母子であることが出雲守補任の背景であったが、堀河天皇は嘉承二年八月九日に死亡してしまった。兄基隆はその時点ですでに院近臣の有力者の指定席である播磨守を六年間務めており、白河院が主導した最初の除目である嘉承三年正月には、これまた院近臣の有力者の指定席である伊予守に遷任している。すでに白河院の有力近臣となっていた。これに対して弟家保は六八才で二度目の大宰権帥であった養父匡房に期待するほかなかったが、出雲守重任は実現せず、右中弁藤原顕隆の嫡子顕頼が一四才で出雲守に補任された。
 養父匡房も天永二年(一一一一)年七月二九日には権帥から大蔵卿に遷任したが、同年一一月五日には七一才で死亡した。家保も永久二年(一一一四)正月五日に従四位上に補任された(推定年齢三五才)が、その後は任官することもなく大治三年(一一二八)四月に死亡した。推定年齢は四八才である。兄基隆はその四年後の天承二年(一一三二)三月に五八才で死亡したが、弟家保の最終位階である従四位上に叙されたのは二六才の時点であった。基隆の嫡子忠隆も二五才で従四位上に叙されている。基隆と五才程度年下の同母弟家保との間には早くから差がみられた。家保がなぜ匡房の養子となったかは不明であるが、兄との昇進差の背景には能力以外のものもあったであろう。

基隆と家保の差1

 藤原基隆は承保二年〈一〇七五)に生まれ、寛治二年(一〇八九)に一五才で叙爵、寛治四年には堀河天皇の昇殿を許され、左兵衛佐に補任されている。受領となったのは二〇才であるが、初任でなることは希な美作守(五味文彦氏のランクでは最上級)であった。前任の高階泰仲は補任二ヶ月で伊予守(最高ランク)に遷任している。美作守の前が讃岐守(最高ランク)であったように、白河院の有力近臣である。基隆に弾き飛ばされたものではなく、自らの意思で希望した伊予守になったものであろう。こうしてみると、二〇才の美作守基隆の背後には有力近臣が知行国主としていた可能性が大きいが、具体的人名は不明である。
 同母弟家保と異なり、「隆」の字を付け、それは嫡子忠隆(忠は母方の祖父藤原長忠にちなむものであろう)と同母弟経隆にも受け継がれている。父家範の曾祖父で「刀伊の入寇」を撃退したとされる隆家(道隆の子で伊周の弟)にちなむものであろう。堀河乳母である母家子の父家房は隆家の子である。基隆の母家子が乳母の一人であった堀河天皇は基隆の四才下であるが、義理の外祖父である関白師実の補佐を受けて政治を主導していたとされる。これに対して基隆の同母弟家保は父家範と母方の祖父家房にちなむものである。
 家保の生年は不明で、永長元年(一〇九六)四月には中務少輔に補任されていたことがわかる(大日方克己氏『平安後期の出雲国司』による)。兄基隆の叙爵・任官をみると五才程度年下(一〇八〇年頃出生)と考えられる。承徳二年(一〇九八)一一月二九日には中務大輔とみえ、康和五年(一一〇三)一二月三〇日には備後守(三番目のランク)に補任された。養父である大江匡房が知行国主であったことは前述のとおりである。後任の備後守は源俊房の子宗光である。他の兄弟が「師」や「時」をその名に付けているのと異なっている。母の名も不明であり晩年の子であった可能性が高い。系図には左京大夫とみえる(従四位下相当)。俊房の嫡子で、すでに参議となっていた兄師頼(三八才)が知行国主であった可能性がある。

2018年12月 9日 (日)

源義親の乱の再検討2

 匡房の後任の権帥は藤原保実であったが、補任後間もない三月四日に病死し、藤原季仲が権帥に補任された。ところが前述のように長治二年一一月に季仲が解任・配流されたことにより翌長治三(嘉承元)年三月に再度匡房が権帥に補任された。
 これに対して隠岐に配流されていた義親が出雲国に渡って反乱を起こしたのは翌嘉承二年六月であった。なぜ出雲国で、この時期なのかとの質問には、配流先の隣国であるからとの回答が予想されるが、単なる隣国ではなく、自らを配流処分に追い込んだ匡房が出雲国知行国主であり、且つ、再び大宰府権帥に補任されたことが直接の背景となったことは確実である。
 殺害された出雲国目代も匡房の関係者であろう。その具体的状況も、国主匡房が早急に鎮圧するよう命じた結果失敗したのではなく、義親一行が目代を急襲して殺害したものであろう。それゆえに正規の追討使が派遣されればすぐに鎮圧された。そのような小規模の反乱であった。政府への反乱というよりも、基本的には義親の匡房への私怨を晴らすことを目的とした挙兵であった。それがさらに拡大する可能性があったことまでは否定はしないが、対馬国並びにその周辺での「濫行」には自らの勢力を扶植するという目的があったが、出雲国で反乱を起こしてもその後の展望はないのである。
 『松江市史』ならびに「松江市史プラス」で西田友広氏が、義親が義家の嫡子(御曹司)であるとの通説に基づき、その背景を含めて述べているが、通説は前述のように明白な誤りであることが明らかで、出雲国知行国主が大江匡房であることのように、従来明らかとなっていなかった点を含むもので、従来は反乱について過大評価されており、その見直しが必要であることを述べた。
 (付記)乱の時点で再任された匡房が大宰府に赴任していたと記したが、乱鎮圧後の二月九日の時点で匡房が大宰府に赴任せず在京のまま府務を行っていることは民の憂いで、賢者の行いではないと批判されており(『中右記』)、修正した。

源義親の乱の再検討1

 すでに述べたように、源義親は義家の庶子であり、嫡子は日野有綱を母とする四人の兄弟で最も年長であった義忠であった。義親の乱の翌年に義忠が暗殺され、同母兄弟三番目の為義が後継者となった(二番目が足利・新田氏先祖義国)。『大山寺縁起』にも義親の乱について述べられているが、嘉承二年一二月一九日に追討使に補任され下向した因幡守平正盛により反乱は鎮圧され、翌年正月二二日には正盛からの解が朝廷で報告されている。出雲国に下向した正月六日に義親とその従類五人が誅せられており、これによればさほど大規模なものではなかったことになる。一方では一二月一九日以前には出雲国目代を殺害しており、近境の国々には義親に同意するものがあるとの噂もあったという(中右記)。
 以上のような疑問に対する一つの回答となるのが、隠岐国に配流されていた義親が出雲国に渡って反乱を起こしたのが嘉承二年六月であり、当時の出雲国知行国主が対馬守義親の濫行を摘発した大江匡房であったことである。家保を院近臣とするものが多いが、その母が乳母の一人であった堀河天皇の近臣にとどまった。出雲国が匡房の知行国となり、その養子藤原家保が国守に補任されたのは長治元年(一一〇四)正月二八日であった。前任は藤原清隆の叔父忠清で、二期目の任期を一年残して淡路守に遷任している。前述のように大江匡房による養子家保の出雲守補任要望を受けてのものであった。
 匡房が大宰権帥であった康和三年七月に義親の濫行が政府に告発され、追討使が派遣された。翌年正月に匡房は権帥を退任して帰京しており、二月二〇日に朝廷に届いた大宰府解でも反乱が続いていることが記されている。その後義親は捕らえられ、一二月には隠岐配流の処分となり、翌康和五年三月に実際に隠岐に送られた。家保の出雲守補任の一〇ヵ月前であった。

知行国の返上・改給2

 三例目の「権大納言治部卿源朝臣」とは源俊実であるが、その知行国ならびに国守については不明である。権大納言補任は嘉承二年である。
四例目の「前権中納言大江朝臣」とは長治三年三月(一一〇六)に権中納言を退任した大江匡房である。大宰権帥藤原季仲が日吉社との対立で前年一一月に帥と権中納言を解任され配流され、後任の帥に補任(再任)されたためであった。該当するのは匡房の養子藤原家保が康和五年二月に備後守に補任されていたが、わずか一年余りで出雲守に遷任したことであろう。これにより、大江匡房が備後国と出雲国の知行国主であったことが判明した。対馬守源義親の濫行を告発したのは当時大宰権帥(『中右記』が大弐と記すのは誤り)であった匡房であり、その結果、義親が隠岐に配流となったのはよく知られている。義親が出雲国で反乱を起こしたことの背景として、匡房が知行国主でその養子家保が出雲守であったことがあったことは間違いなかろう。
 最後となる五例目の「権中納言藤原朝臣」とは藤原宗通であり、その子伊通が長治二年正月に三河守に補任されたばかりであったが、二年弱の在任で備中守に遷任している。伊通在任時の三河国と備中国は宗通の知行国であったことがわかる。
 出雲守家保が杵築大社造営と国守の重任を望んでいたことは知られているが、その背後には知行国主大江匡房がいたことは確実である。しかし、後白河院が大社造営事業の担い手として選んだのは藤原顕隆(知行国主)とその子顕頼(国守)のコンビであった。この点について、『中右記』の記主藤原宗忠は顕頼が一四才であるがため、この直前に蔵人頭に補任された祖父為房がかなり強引な形で宣旨を出したことを批判的に述べている。
 大社造営とその後の修理が一段落したことにより、永久三年一二月一四日に顕頼は、三河守隆頼と相博・遷任した。天永二年一二月二四日に重任宣旨を得て、二期八年務めたことになる。この点については、杵築大社造営旧記の写間違いに誰も気づかず、出雲守補任から七年後の天永二年末に重任し、翌年末に遷任するというあり得ないことが述べられてきた。二〇〇四年の論文でその点については明確な根拠により明らかにし、井上寛司氏の論文集(二〇〇九年刊)では訂正されたにもかかわらず、昨年刊行された佐伯徳哉氏『出雲の中世』ではなおも誤りが踏襲されている。

知行国の返上・改給1

 嘉承二年(一一〇七)九月に参河国(給封)を返上して、伯耆国の改給を求める解が提出されている(朝野群載)。提出者の名前は無いが、これを収録した『愛知県史』史料編六では三河守藤原隆頼を提出者としている。ただし、一〇七五年生の基隆を父とし、同年齢の源師隆の娘を妻とする隆頼はなお一〇代であったと思われ、解の提出者は三河国知行国主である父基隆であろう。康和三年(一一〇一)以降の返上・改給の先例としてあげられている人名もすべて公卿であり、知行国主であった。三河国より伯耆国が望ましいとは意外な気がするが、都と水運でつながっている点と、当時の伯耆守高階為遠(長治二年正月に重任し、年末には四年が経過)の動向もあったと思われる。
 最初の康和三年の例と思われる中宮大夫源朝臣とは大納言源師忠のことで、その子が前述の師隆であるが、寛治七年(一〇九三)には正四位下に叙せられ、永長二年(一〇九七)には讃岐権守に補任されている。師忠がどこの国主であったかは不明だが、国守としたのは師隆の異母弟師親(当時一〇代前半であったと推測されるが、四年後に死亡している)ではないか。
 二例目の「大納言藤原朝臣」は閑院流の藤原公実であろうか。子通季が康和六年(一一〇四)正月に美作守に補任されているが、これは国司としては初任である。当初別の国が示されたのが変更されたものであろうか。前任の美作守藤原顕季は康和三年七月に補任されており、任期半ばであった。顕季は美作守の前は播磨守であったが、藤原基隆と相博している。あるいは公実の子でありながら公卿とならなかった実兼(通季の異母兄)の国守補任に関わるものであろうか。

2018年12月 4日 (火)

秋山版活碁新評

 秋山次郎監修『名著再び 活碁新評』(日本棋院)をようやく購入したので、原著並びに長谷川章補稿解説『新訂活碁新評 筋と形』(上下、名著名局囲碁文庫、東京創元社)と比較してみる。なお、現時点ではななめ読みなので、後に必要に応じて加筆・修正するかもしれない。表紙には「江戸時代の名棋士 岸本左一郎が遺した手筋教本」とあり、裏表紙には「実践手筋を学ぶ130問」と記されている。
 秋山版は『週刊碁』に一年半にわたって連載した講座に基づくもので、原著に忠実に全一三〇題を掲載し、岸本のコメントを部分的に引用しつつ、自らのコメントを付している。長谷川版は問題図と岸本のコメント(若干表現を変えてある)を最初に掲載した上で、自らの解説を加えている。秋山版より解説図も多く詳細である。そのためか、全一三〇題から八六題を選んで掲載している。『棋道』に連載したもの(上巻の五二題)に、未発表分(下巻の三四題)を加えているが、下巻は雑誌連載のスペース上の制約がないため、より詳細なものとなっている。
 長谷川版は、読者から「『活碁新評』の素材を利用しつつ、長谷川氏の著作といってよいものになっている(仮に原著を持っていたとしても長谷川版を購入する価値がある)」との指摘を受け、途中から長谷川章著『筋と形』に題名を改めて版を重ねている。当方が所持するのは、伊豆の収集家からいただいた原著のコピーならびに、一九五六年一月(上巻)と三月(下巻)発行の初版本(岸本著・長谷川解説)と、一九六三年一二月発行の上巻の第一〇版(長谷川著)である(成田山新勝寺図書館で撮影した活碁新評と常用妙手の写真もあり)。時間の余裕ができれば全部を読破して、原著がわかるような形でHP上で掲載したいと思っているが、それがいつになるかは未定である。棋譜のワープロソフトもあるようであるが、花子やイラストレーターを利用しつつ作成できないかとも思っている。少しみただけだが、現在では有段者向けのものであろう。
 なお、市内の最大の書店に用事があって久しぶりに行ってみると囲碁の本棚の中に一冊あるのみで、島根県出身の人物の著作に基づくものであることに気づく人がいるか疑問であった。郷土の本のコーナーに置いてもよいのではないか。来年五月末から六月初めには二〇一一年に続く二度目の世界アマチュア囲碁選手権大会が松江市で開催される。四〇回目の記念大会でもあり、その前宣伝としても活用できる。なにより、世界からの参加者に秀策の兄弟弟子でこのようなすぐれた著作を残した岸本の存在を知ってもらえる機会ともなる。 その意味で、秋山版には原著の末尾の岸本の文(このような本を出版することとなった経緯が述べてある)が掲載されればなお良かった。岸本は大森の生まれであり、この本は石見銀山が生み出した文化的遺産の一つである。    

2018年12月 3日 (月)

藤原朝定と仮殿遷宮3

 仮殿造営中の前年八月には在庁官人が光隆に解状を提出していた。鳥羽院政期に寄進地系庄園が増加したとされるが、実際には嘉承二年七月の堀河天皇の死により白河上皇が実権を握って以降に、院や天皇の御願寺への寄進が増加している。出雲国でも同様であり、在庁官人等は公領のみならず庄園が負担しなければ大社造営は困難であるとの危機意識から解状を提出した。光隆も康治二年二月八日には政府に造営に協力することを命じた官宣旨を出すことを求め、三月一九日には政府がそれを認めている。その効果があったのか、康治元年一二月の材木採取開始から二年一一ヶ月後の久安元年一一月二五日に正殿遷宮が終了した。光隆の国守補任から六年一一ヶ月後であった。
 これに対して、出雲守藤原朝定とその父で知行国主である朝方による仮殿遷宮が行われた治承三年一一月一九日は、国守補任から二年五ヶ月後であり、顕頼時の一〇ヶ月よりは長いが、光隆時の三年一一ヶ月よりは短い。章俊時については、治暦元年(一一六五)一月に造営のため延任しており、康平四年一月に出雲守に補任された可能性が大きい(『松江市史史料編3古代・中世Ⅰ』の出雲国司表による)。とすると、国司補任から仮殿遷宮までの期間は一年四ヶ月となる。以上を勘案すると、造営のために朝方・朝定父子が出雲国に還任しており、仮殿造営に着手する前に顛倒があった可能性は十分にある。
 以上、建久元年の正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮は治承三年一一月一九日に行われたことと、仮殿造営前に顛倒があった可能性が高いことを指摘した。 

藤原朝定と仮殿遷宮2

 出雲守となった顕頼は三月に杵築社造営を申請し、一〇月三日に朝廷の許可を得ると、一〇月八日から仮殿造営の為の材木の伐採が開始され、早くも一月後の一一月九日には仮殿遷宮を終えている。国司補任から一〇ヶ月である。前回の国守藤原章俊による康平五年四月二二日の仮殿造営の場合は、前年一一月二九日に本殿が顛倒したことで着手された。一旦、御神体を舞殿に遷した上での造営であり五ヶ月を要した。その後、正殿造営の材木採取が始まったが、造営に必要な巨大な材木が国内には見当たらなかったため、供給可能な地域を探して、天永元年七月に因幡国等から材木がもたらされた。これで造営が軌道に乗り、天永三年六月一八日に正殿遷宮が終了した。正殿造営開始から三年七ヶ月、国守補任から四年半であった。
 保延四年一二月二九日、源光隆と藤原光隆の間で出雲国と安芸国の相博が行われ、藤原光隆が出雲守となった。実力者である父藤原清隆が知行国主であった。源光隆は待賢門院の分国である出雲・安芸両国で国守を務めた。出雲国が別の人物を国守として院分国であり続ける可能性もあったが、杵築社造営が現実の問題となったため、安芸国に遷されたものであろう。この点は後白河の院分国のもとで出雲守となった藤原能盛が周防国に遷任したケースと同じである。
 仮殿造営開始前の保延七年六月七日に本殿が顛倒し、一時的に修造した竈殿に御神体を遷した上で、仮殿造営が開始され、顛倒から一年五ヶ月半後の永治二年一一月二一日に遷宮が終了した。章俊のケースよりも一年間余計にかかった原因については不明である(一一月二五日の島根県中世史・近世史合同研究会で発表した際の資料では五ヶ月半後の遷宮としていたが、訂正する)。国司補任後から三年一一ヶ月が経過しており、一二月一日に正殿造営の材木採取を開始した直後に重任して事業を継続したと思われる。

藤原朝定と仮殿遷宮1

 建久元年の杵築社正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮の年次については、弘安四年の出雲義孝申状に安元元年〈一一七五)一一月一九日とされ、その時点では出雲宗孝が国造兼神主であったとする。併せてそれに先立つ承安二年(一一七二)一〇月一〇日に本殿が顛倒したと記されている。これに関連して安元二年一〇月日出雲国司庁宣がある。出雲宗孝が平治年間頃に国造職を一族の兼経に申し付けるよう国司に要望し実現したが、兼経が死亡したことにより、国司が宗孝を国造に補任したものである。
 この庁宣が偽文書であることは何度も述べている。兼経の前任の国造兼忠は平治年間には健在であり、国造家譜をみても、天承元年(一一三一)から仁安三年(一一六八)までの三八年間国造の地位にあった。次いで兼経が仁安三年から安元二年までの九年間国造であり、宗孝が国造となったのは安元二年であった。よって安元元年の仮殿遷宮時に宗孝が国造兼神主であったとする義孝申状の記載は誤りである。
 仮殿遷宮の年次そのものについても、承久二年の杵築社政所注進状には「承安元年一一月一九日」とある。ただし、「従久安元年至今年暦卅四年」と矛盾している。三四年後を重視すれば治承三年となる(建久元年の正殿遷宮が四五年後とあることによる)。これと関連するのが、出雲守藤原朝定が治承五年三月六日に杵築社の修造が完了していないとして重任宣旨を与えられていることである。朝定は治承元年六月二八日に、後白河院分国下で国守であった藤原能盛が周防国に遷任したことにより、石見国から出雲国に遷任・復任した。能盛が四年任期を半年残して遷任したのは杵築社造営が現実の問題となっていたからであろう。
 出雲守藤原家保が杵築社造営の開始と自らの重任を求めていたが、朝廷はそれを認めず、嘉承三(天仁元)年正月に藤原顕頼に交替させた。顕頼は一四才であったが、知行国主となった父顕隆は左大弁で実力者であった。顕隆の父為房は白河院の養女となり寵愛を受けていた璋子(待賢門院)の母光子の兄弟であった。光子は堀河・鳥羽両天皇の乳母となり、自らが二位に叙せられたように大きな影響力を持った。光子の娘で璋子の姉である実子も鳥羽の乳母となり、光子の産んだ通季・実能を祖とする西園寺家と徳大寺家は中世を通じて公家社会で高い地位を維持した。

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