koewokiku(HPへ)

« 杵築大社神主補任状から7 | トップページ | 因幡守藤原通基1 »

2018年12月20日 (木)

杵築大社神主補任状から8

 文治五年二月二二日には、頼朝が義経に与同しているとして、知行国主藤原朝方、その子で国守の朝経、目代の兵衛尉政綱の解任を朝廷に要求した。その結果、四月五日に政綱が頼朝が派遣した北条時定に引き渡され、一三日には朝方・朝経父子も解任された。その方針が朝廷から伝えられると、頼朝は前言を翻し、杵築大社造営に当たってきた父子の解任は不憫であるとし、政綱以外の人物を目代にすれば還任を容認することを伝えてきた。すでに述べたように、杵築大社造営は領家藤原光隆と知行国主藤原朝方に頼朝が協力し、神主資忠を中心に行われてきた。朝方の目代であった東国御家人政綱を解任したのは残念ではあったが、協力関係は維持するとの意向であった。
 本ブログでは政綱は目代であるとともに初代出雲守護であったとの説を提示しているが、その後任は誰であったろうか。目代を兼務したかは不明であるが、出雲国内に所領を得ていた佐々木高綱がその有力候補であろう。苗字の地である乃木に現在の善光寺の前身となる御堂をもうけ、大山寺には等身地蔵を建立している。その子光綱は承久の乱以前には出雲国の有力在庁官人朝山惟綱の娘と結婚して子高定をもうけている。高綱は信仰との関係で建久六年には家督を嫡子重綱に譲って出家したが、その後任の出雲守護が安達親長であろう。

« 杵築大社神主補任状から7 | トップページ | 因幡守藤原通基1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 杵築大社神主補任状から8:

« 杵築大社神主補任状から7 | トップページ | 因幡守藤原通基1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ