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2018年12月20日 (木)

杵築大社神主補任状から7

 建久元年の杵築大社造営は知行国主・領家・幕府の協力のもとに内蔵資忠を神主に補任して初めて行い得たものであった。それが故に、その記録を国造家は廃棄し残さなかった。佐伯氏のこの問題に関する見解は次のとおりである。「建久の遷宮で完成する杵築大社の造営事業は、先の神殿が倒壊した正(承)安二年から数えて一八年もの長きにわたった再建事業であった。」「建久元年十月十八日、杵築大社では、ようやく正殿造営を遂げることができたのである。」「(反発の原因は)資忠と武士(鎌倉幕府)との関係が深かったこと、そして、資忠が建久の遷宮で神主職としての役目を果たす能力がなかったことの二点である。元暦二年からこの時期にかけて東国を本拠とする幕府がその勢力を扶植しようとするものの、もともと出雲国内にコネクショを持たなかったため、忠光以来のいきさつがあった資忠と結びつきこれを利用したというのが真相ではないか。」以上の説が根拠を欠いたものであることは明白であろう。国造が遷宮の際に御神体を抱懐することと、杵築大社造営中に神主資忠が二度も鎌倉の頼朝もとを訪れているのは問題であることを理由として、後白河院を通じて領家光隆に働きかけ、建久元年六月の遷宮の直前に、国造孝綱が神主に補任された。知行国主・領家・幕府の協力体制に少しずつ亀裂が生じつつあった(隠岐国については隠岐守藤原惟頼再論ですでに述べたので省略する)。

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