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2018年12月20日 (木)

杵築大社神主補任状から5

 揖屋社と飯石社は成勝寺領となったことで、保元の乱で崇德院が敗れ配流された影響は最小限であったろうが、崇德院庁分となった杵築大社領は、一旦国衙領に戻された上で、後白河院に再寄進され、出雲守として杵築大社造営を行った経験を有する藤原光隆が領家となった。神主には国造兼忠が補任された。国造と神主を兼帯したのはこれが初めてであった。
 国造兼忠が亡くなると、国造家一族の兼経が国造を継承したのに対して、神主は請文を出したものの中から領家が補任した。そうした中、兼忠の妹を妻とし、出西郷・富郷開発の中心であった一族の出雲孝宗が神主に補任された。孝宗は出雲氏の一族という点では内蔵氏と同じであったが、国造家との外戚関係を有していた。Bの中では兼忠が孝房の伯父と呼ばれ、兼忠の父兼宗が祖父と呼ばれているのはそのためである。兼忠の父頼兼ではなく、国造国経を曾祖父と呼んでいるのは、国経の娘が兼宗との間に産んだ娘が宗孝の妻であったからであろう。次いで国造兼経が死亡し、その子が幼少であったため、孝宗が国造にもなった。二人目の国造兼神主であった。その子孝房も神主に補任されたが、文治二年には更迭され、幕府を開いた源頼朝の推薦を受けた内蔵資忠が神主に補任された。一方、国造については、元服した兼経の子石王冠者が権利を主張した。神主と国造それぞれをめぐる対立が生まれたのである。
 内蔵資忠の神主補任は、平治の乱で頼朝が伊豆に配流された際ないしはそれ以降の資忠の大功 によるものであった。因幡国在庁官人で高庭介であった長田資経の子実経は頼朝が配流される際に一族の資家を派遣した恩により、平家方であったにも関わらず、所領を頼朝から安堵された。
  因幡国在庁官人と崇德院の側近日野資憲の関係の背景としては、大治三年から永暦二年までの国司(国主・国守)がいずれも待賢門院関係者であることであろうか。藤原通基の妻は待賢門院女房で、上西門院の乳母であった。次いで待賢門院の同母兄西園寺通季が国主、その子公通が国守となっている。藤原季行は待賢門院別当敦兼の子である。藤原信輔は待賢門院の姉妹を母とし、盛隆は信輔の娘を母とし、盛方は待賢門院別当であった平忠盛の娘が母である。

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