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2018年12月20日 (木)

杵築大社神主補任状から4

 内蔵忠光は崇德上皇の院庁判官代や別当を務めた側近日野資憲の叔父資光との関係を深め、自らには「光」、子には「資」の一字をその名に付けていた。その関係は大治五年(一一三〇)から保延四年までの八年間に出雲国が崇德院の母待賢門院の分国となった際に形成された。待賢門院庁の判官代が日野資光で、その跡を継承したのが、平忠盛の妻として知られる池禅尼(宗子〉の兄宗長であった。久安元年(一一四五)年に待賢門院が死亡すると、その所領の大半は崇德院が管理するところとなった。その院庁の中心が日野資憲であり、同年には崇德天皇の御願寺成勝寺に意宇郡揖屋社が寄進され、庄園として立券された。その領家となったのが資憲であるが、資憲は叔父資光の娘で待賢門院の女房であった阿波を妻としていた。阿波は待賢門院の死後は崇德院女房になっている。成勝寺には仁安二年に飯石郡揖屋社が寄進されているが、寄進者である法成寺執行増仁は摂関家氏寺法成寺執行隆尊の子で、その母は不明だが、兄弟の信朝法橋と行光は待賢門院女房但馬(高階為家女子)が母であった。また、増仁の姉妹讃岐宣旨は勧修寺流藤原為房の晩年の子朝隆・親隆の母であった。為房の姉妹光子は閑院流藤原公実の妻で、待賢門院、西園寺通季、徳大寺実能を産む一方で堀河天皇とその子鳥羽天皇の乳母となり、従二位に叙せられ、政治的影響力を有した。
 勧修寺流は嘉承三年(一一〇八)年に為房の子顕隆が出雲国知行国主(国守は子顕頼)となり、その後も顕隆の兄為隆(国守は子憲方)、弟の親隆(国守は甥で養子の朝親)、親隆の兄朝隆の子朝方(国守は養子の朝時、実子の朝定・朝経)が知行国主となっている。とりわけ叔父親隆の跡を継承した朝方は三〇年間以上、出雲国知行国主であり、建久元年遷宮の造営にあたった。

 

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