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2018年12月20日 (木)

杵築大社神主補任状から3

 話を戻すと、一宮杵築大社の経済的自立性を高めるために、治暦三年以降、正殿遷宮時に国司が公領を杵築大社に寄進する形をとった。次いで杵築大社領が寄進され、庄園として国衙から独立した存在となり、神事も原則的には領家と神主のもとで国造が行う形となった。一方、最大の神事である三月会については、国内の所領が順番に頭役を負担した。これに対して三〇数年に一度の杵築大社造営は領家・神主のみで行うことは不可能であり、国衙目代が領家・神主と連携して進めていった。造営関係史料の内、国衙作成分は国衙でも保存された可能性があるが、最終的な保存主体は政所である。それがゆえに、承久二年六月に国衙が政所に過去の造営事例を報告させた。それがAであった。
 それに対してBとCは一体のものである。Cについては『鎌倉遺文』の編者竹内理三氏がとりあえず関連する宝治二年の遷宮の状況を報告した建長元年注進状の前に配置し、その理解に対して疑問が出されることは無かったが、二〇〇四年の論文で、Bの解を作成する際の資料として写されたものであることを明らかにした。文治二年に国造出雲孝房に代えて、内蔵資忠が神主に補任された。資忠の父忠光は一二世紀半ばに杵築大社領を崇德院に寄進した際の中心人物で初代神主に補任されていた。後に国富郷地頭に内蔵資忠の子孝元が補任されたように、出雲国在庁官人出雲氏の一族で、神事などに使用する神宝や神具の管理に当たり、経済力を持っていた。資忠が神主の一方で隠岐国在庁であったように、出雲・隠岐両国にも勢力基盤を有していた。

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