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2018年12月15日 (土)

隠岐守藤原惟頼再論3

 ここから、丹波国が摂関家知行国となり、惟頼が国守になった可能性があることがわかる。越後守が摂関家知行国下の国守源宗雅から平時忠子時実(建春門院分国)に交代した仁安元年八月二七日に惟頼が丹波守に補任されている。宗雅が越後守に補任された応保二年(一一六二)七月一七日の時点では摂関家当主は藤原基実であったが、永万二年七月二六日には二六才で死亡し、弟松殿基房が当主となり摂政に補任されている。惟頼は知行国主松殿基房のもとでの丹波守であったと考えられる。
 翌二年五月一九日には相模守藤原盛頼が遷任し、惟頼は「前丹波守」となった。その後承安四年正月二一日に惟頼が佐渡守に補任されている。佐渡国は、五味氏の一覧表から洩れているが、康治元年から保元元年までは藤原忠通の知行国であったことが確認できる。承安四年時点の佐渡国知行国主、安元二(一一七六)年正月三〇日に隠岐守に補任された際の時国知行国主は松殿基房であろう。
 問題はいつまで隠岐守であったかであるが、治承三年(一一七九)一一月一七日の平清盛によるクーデター時であろう。同年六月に清盛の娘で亡父基実領を管理していた盛子が死亡した。すると後白河と基房は所領を後白河の管理下に置き、一〇月には基房の子師家が基通を超えて中納言の昇進した。これをみて基通を摂関家当主として所領支配を続けようとした清盛が、福原から上洛してクーデターを起こしたとされる。当然のことながら、後白河は院政を停止され、幽閉された。基房も関白を解任され、大宰権帥に左遷された。これにともない隠岐国は平家知行国となり(これまでの研究では指摘されていない)、関係者が隠岐守に補任されたことは確実である。犬来・宇賀牧が平家領となったのはこの時点であり、それ以前は松殿基房の所領であった可能性が大きい。
 一一八三年七月に平家が都落し、源義仲が入京したが、一一月一九日には後白河院と対立する義仲がクーデターを起こし、基通に替わって左遷されていた松殿基房の子師家が摂政となった。これにより、隠岐守に惟頼が復任した可能性があるが、翌年一月には義仲が滅亡し、師家は解任され、基通が摂政に復帰した。平家のクーデターで初めて摂政となった基通は二〇才で高官の経験が不足しており、その補佐役として亡父基実の異母弟兼実が起用された。義仲滅亡後は基通の近衛家と兼実の九条家が摂関家の核となっていく。そうした中、惟頼は松殿家に代えて九条家との関係を強めていったと思われる。惟頼の最終史料は建久六年三月二一日の東大寺供養の参加者として「堂童子右」の中に「藤原惟頼」がみえるものであるが、娘が弁局が昇子内親王の乳母となったのは、その母が九条兼実の娘任子(宜秋門院)であったことによる。
 以上、藤原惟頼の動向をみることで、隠岐国犬来・宇賀牧が平家領となった背景が明確となったと思われる。課題としては惟頼と摂関家の関係がいつまでさかのぼるのかであるが、前述のように、院との関係と摂関家との関係は両立が可能である。

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