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2018年12月 9日 (日)

知行国の返上・改給2

 三例目の「権大納言治部卿源朝臣」とは源俊実であるが、その知行国ならびに国守については不明である。権大納言補任は嘉承二年である。
四例目の「前権中納言大江朝臣」とは長治三年三月(一一〇六)に権中納言を退任した大江匡房である。大宰権帥藤原季仲が日吉社との対立で前年一一月に帥と権中納言を解任され配流され、後任の帥に補任(再任)されたためであった。該当するのは匡房の養子藤原家保が康和五年二月に備後守に補任されていたが、わずか一年余りで出雲守に遷任したことであろう。これにより、大江匡房が備後国と出雲国の知行国主であったことが判明した。対馬守源義親の濫行を告発したのは当時大宰権帥(『中右記』が大弐と記すのは誤り)であった匡房であり、その結果、義親が隠岐に配流となったのはよく知られている。義親が出雲国で反乱を起こしたことの背景として、匡房が知行国主でその養子家保が出雲守であったことがあったことは間違いなかろう。
 最後となる五例目の「権中納言藤原朝臣」とは藤原宗通であり、その子伊通が長治二年正月に三河守に補任されたばかりであったが、二年弱の在任で備中守に遷任している。伊通在任時の三河国と備中国は宗通の知行国であったことがわかる。
 出雲守家保が杵築大社造営と国守の重任を望んでいたことは知られているが、その背後には知行国主大江匡房がいたことは確実である。しかし、後白河院が大社造営事業の担い手として選んだのは藤原顕隆(知行国主)とその子顕頼(国守)のコンビであった。この点について、『中右記』の記主藤原宗忠は顕頼が一四才であるがため、この直前に蔵人頭に補任された祖父為房がかなり強引な形で宣旨を出したことを批判的に述べている。
 大社造営とその後の修理が一段落したことにより、永久三年一二月一四日に顕頼は、三河守隆頼と相博・遷任した。天永二年一二月二四日に重任宣旨を得て、二期八年務めたことになる。この点については、杵築大社造営旧記の写間違いに誰も気づかず、出雲守補任から七年後の天永二年末に重任し、翌年末に遷任するというあり得ないことが述べられてきた。二〇〇四年の論文でその点については明確な根拠により明らかにし、井上寛司氏の論文集(二〇〇九年刊)では訂正されたにもかかわらず、昨年刊行された佐伯徳哉氏『出雲の中世』ではなおも誤りが踏襲されている。

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