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2018年12月27日 (木)

因幡守藤原通基2

 保安二年に炎上した園城寺講堂再建の料所として同寺の檀那であった通季が国務を執っていた加賀国を充てたことはすでに述べたが、この時期の加賀守を確認すると元永元年(一一一八)一二月二九日には二三才の同母弟徳大寺実能が補任され、次いで保安二年閏四月一一日には二〇才の異母弟季成が補任されている。通季が国務をとっていた二期八年とは、二人の弟が国守であり通季は加賀国知行国主であったことになる。そして大治二年(一一二七)正月一九日には二一才の院近臣藤原家成が後任の加賀守に補任され、加賀国は鳥羽院分国となった。加賀国の交代から因幡国の獲得まで一年弱あいているが、その意味を説くカギは、持明院通基が武蔵守から因幡守に遷任していることである。通基の武蔵国補任時期は不明であるが、武蔵守の後任が藤原公信であることが注目される。公信の祖父保実は西園寺通季や待賢門院の父である公実の弟で、公信の子実清は崇德院の殿上人で、崇德院庁の別当となり、保元の乱で崇德方となっている。そして公信の後任として武蔵守に補任された藤原信輔の室は通基の娘で、信輔の母は公実の娘であり、通基・公信・信輔が武蔵守に補任された時期の武蔵国は待賢門院の分国ではなかったか。通基は女院分国武蔵の国守から、女院の同母兄通季の知行国因幡の国守に遷任したことになる。
 なお、信輔の後任の武蔵守は藤原季行であり、美福門院の分国となったと思われる。待賢門院の分国は実子崇德が退位し、美福門院の産んだ近衛が即位すると、摂関家の知行国や他の院分国に変更されている。季行は鳥羽院並びに待賢門院の別当となった敦兼の子であるが、その娘が美福門院が産んだ皇女(高松院)の乳母となっている。
 県史に国司の交代記事をすべて掲載するのが望ましいが、鳥取県史ではスペースの制約から重要な物に限定し、その他は国司関係史料の一覧表にまとめている。とはいえ、これまで述べたように表の比定が誤っている場合もあり、県史のHPで割愛した史料が閲覧できるようになっているとよい。今回は幸いにも関係史料をネット上で確認できたのでよかったが、閲覧が容易ではなく、所蔵機関に直接行くしかない場合もある。当然県史編纂時には関係史料の写真も作成されており、その保存と公開も重要である。

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