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2018年12月15日 (土)

隠岐守藤原惟頼再論2

 そこで問題となるのが前司藤原惟頼がどのような背景で隠岐守に補任されたのかである。惟頼は保元元年一〇月二七日には後白河院の中宮となった忻子(徳大寺実能の娘)の中宮権少進に補任されている。その時に中宮権大進に補任されたのが叔父で重頼の父である重方であった。忻子はその直前の二三日に女御となる宣旨を与えられ、家司と職事が補任されているが、そこには宮内少輔重方と惟頼の父である前阿波守頼佐がみえていた。中宮となった際に頼佐からその子惟頼に交代した形である。その後、惟頼は仁安元年八月二七日には丹波守に補任され、次いで承安四年正月二一日には佐渡守、安元二年正月三〇日には隠岐守に補任されている。五味文彦氏のランクで言えば、丹波国は第二番目、佐渡国と隠岐国は第五番目である。普通なら最初に丹波守に補任される事はなく、知行国主のもとでの国守であったと考えられる。
 丹波国は藤原顕時の知行国であったとの五味文彦氏の説を前に紹介した。『顕広王記』仁安二年五月一九日条に相模・丹波が「相博」と記されていること、実際に相模守藤原盛頼が丹波守に遷任していること、惟頼の前任の丹波守藤原盛隆と仁安三年八月に相模守としてみえる藤原有隆が兄弟であることから、この前後の時期に両国の知行国主は盛隆・有隆の父藤原顕時であるとした。ただし、惟頼・盛頼と顕時の関係を示す点は不明である。何より、仁安三年八月二七日に、伊勢斎宮となった後白河院の娘惇子内親王の家司に補任された惟頼には「前丹波守」とあり、丹波守から相模守へ遷任していない。
 五味氏は摂関家の知行国を検討する中で、前述の説を提示した。越後と加賀が仁安元年七月と八月の除目で摂関家知行国から外れたが、それに替わる国は確認できず、摂関家知行国が五ヵ国から二箇所減少して三ヵ国となったことが明らかになったと述べたのである。これに対して惟頼は、文治二年四月二八日に松殿基房の子家房が中将となり拝賀を行っているが、その騎馬御共として源長俊と藤原惟頼がみえる。長俊は忠通の家司季兼の孫であり、長俊の子有長は惟頼の娘を妻(建久六年八月一三日に後鳥羽の皇女昇子内親王=春華門院が誕生した際に乳母となった「故前隠岐前司惟頼女弁局」と同一人物か)としている。また、同年一〇月七日には初めて摂政となった九条兼実が初めての着陣を行っているが、兼実に扈従した公卿の内、右大将良通(兼実嫡子)の前駈として「散位惟頼」がみえ、一一月二九日の良通の内大臣拝賀に扈従する三位中将良経(良通弟)の前駈に「同(散位)惟頼」がみえる。翌文治三年七月一〇日の内大臣良経の大饗には五位大夫(蔵人)として惟頼がみえる。以上のように藤原惟頼には摂関家家臣としての側面があったことがわかる。

 

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