koewokiku(HPへ)

« 源義親の乱の再検討1 | トップページ | 基隆と家保の差1 »

2018年12月 9日 (日)

源義親の乱の再検討2

 匡房の後任の権帥は藤原保実であったが、補任後間もない三月四日に病死し、藤原季仲が権帥に補任された。ところが前述のように長治二年一一月に季仲が解任・配流されたことにより翌長治三(嘉承元)年三月に再度匡房が権帥に補任された。
 これに対して隠岐に配流されていた義親が出雲国に渡って反乱を起こしたのは翌嘉承二年六月であった。なぜ出雲国で、この時期なのかとの質問には、配流先の隣国であるからとの回答が予想されるが、単なる隣国ではなく、自らを配流処分に追い込んだ匡房が出雲国知行国主であり、且つ、再び大宰府権帥に補任されたことが直接の背景となったことは確実である。
 殺害された出雲国目代も匡房の関係者であろう。その具体的状況も、国主匡房が早急に鎮圧するよう命じた結果失敗したのではなく、義親一行が目代を急襲して殺害したものであろう。それゆえに正規の追討使が派遣されればすぐに鎮圧された。そのような小規模の反乱であった。政府への反乱というよりも、基本的には義親の匡房への私怨を晴らすことを目的とした挙兵であった。それがさらに拡大する可能性があったことまでは否定はしないが、対馬国並びにその周辺での「濫行」には自らの勢力を扶植するという目的があったが、出雲国で反乱を起こしてもその後の展望はないのである。
 『松江市史』ならびに「松江市史プラス」で西田友広氏が、義親が義家の嫡子(御曹司)であるとの通説に基づき、その背景を含めて述べているが、通説は前述のように明白な誤りであることが明らかで、出雲国知行国主が大江匡房であることのように、従来明らかとなっていなかった点を含むもので、従来は反乱について過大評価されており、その見直しが必要であることを述べた。
 (付記)乱の時点で再任された匡房が大宰府に赴任していたと記したが、乱鎮圧後の二月九日の時点で匡房が大宰府に赴任せず在京のまま府務を行っていることは民の憂いで、賢者の行いではないと批判されており(『中右記』)、修正した。

« 源義親の乱の再検討1 | トップページ | 基隆と家保の差1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 源義親の乱の再検討2:

« 源義親の乱の再検討1 | トップページ | 基隆と家保の差1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ