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2018年12月11日 (火)

基隆と家保の差2

 家保が備後守から出雲守に希望して遷任している事も、出雲国が五味氏の評価した五番目のランクではないことの根拠となろう。養父匡房とともに、堀河天皇の乳母子であることが出雲守補任の背景であったが、堀河天皇は嘉承二年八月九日に死亡してしまった。兄基隆はその時点ですでに院近臣の有力者の指定席である播磨守を六年間務めており、白河院が主導した最初の除目である嘉承三年正月には、これまた院近臣の有力者の指定席である伊予守に遷任している。すでに白河院の有力近臣となっていた。これに対して弟家保は六八才で二度目の大宰権帥であった養父匡房に期待するほかなかったが、出雲守重任は実現せず、右中弁藤原顕隆の嫡子顕頼が一四才で出雲守に補任された。
 養父匡房も天永二年(一一一一)年七月二九日には権帥から大蔵卿に遷任したが、同年一一月五日には七一才で死亡した。家保も永久二年(一一一四)正月五日に従四位上に補任された(推定年齢三五才)が、その後は任官することもなく大治三年(一一二八)四月に死亡した。推定年齢は四八才である。兄基隆はその四年後の天承二年(一一三二)三月に五八才で死亡したが、弟家保の最終位階である従四位上に叙されたのは二六才の時点であった。基隆の嫡子忠隆も二五才で従四位上に叙されている。基隆と五才程度年下の同母弟家保との間には早くから差がみられた。家保がなぜ匡房の養子となったかは不明であるが、兄との昇進差の背景には能力以外のものもあったであろう。

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