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2018年12月15日 (土)

隠岐守藤原惟頼再論1

 惟頼については、院政期の隠岐国司の問題や平家没官領犬来牧等の地頭兼預所従兄弟の藤原重頼との関係で述べたことがあるが、一から考え直してみたい。重頼については、とりあえず中村氏の論文があるので、最初に文治四年の問題に関係する点についてのみ言及する。
 文治四年、朝廷から頼朝のもとに隠岐守源仲国からの申状が届けられ、善処するよう要求された。頼朝は七月一三日に宮内大輔藤原重頼に対して、濫行に関する訴えがあったことを伝えるとともに、中村別符の問題は想定外であったとして、説明を求めている(『吾妻鏡』)。源仲国は後白河院の側近であり、訴えは院の対幕府の意向を反映したものであった。
 訴えは三点あり、一つは幕府御家人である隠岐国在庁資忠に関するもので、残り二点に重頼が関係していた。一点は隠岐国の旧平家領が没官領として頼朝に与えられ、重頼はその代官として預所と地頭を兼務していた。これについて、在庁等から道後の犬来牧と道前の宇賀牧以外は平家領ではなかったとして、没官領から除外して元に戻すよう訴えがあり、院も両牧以外への重頼の支配は濫行だとして、頼朝に返還を求めたものである。もう一点は中村別符に関するもので、前国司であった藤原惟頼の沙汰で重頼の支配するところとなったが、惟頼は重頼の従兄弟であり、その沙汰に異論が出されたのであろう。
 これを受けて頼朝は、隠岐国在庁に対しては両牧以外の重頼の沙汰を停止し、国衙進止とすべきことを伝え、また在庁資忠に対しては、国司の命令に従い上洛し、所当・課役の沙汰をすることを命じている。問題は頼朝がこのような下文を出すことができたのはなぜかということで、石井進氏の見解が通説となっているが、実は石井氏が留保として付した方が正解である。頼朝が隠岐国衙に命令する権限を持っていたというよりも、在庁資忠(杵築大社神主内蔵資忠と同一人物)と重頼が頼朝の御家人であり、今回の命令は院が求め了解しているものであるがゆえに、下文を発給したのである。
 次なる問題は、隠岐国に平家領が存在した背景である。この八〇年も前に、平正盛が隠岐守となった際に平家領となったとの説があるが、当時の正盛の置かれた立場を理解していない憶測である。両牧が幕府領となったのは単に牧の役人(年預等)が平家の家人であったのではなく、平家が庄園ならば領家以上の立場にあったことを意味している。これを踏まえるならば、平家が治承三年一一月にクーデターを起こして後白河院を幽閉した際に、後白河院の近臣領であった両牧が平家領となったと考えられる。

 

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