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2018年12月 9日 (日)

源義親の乱の再検討1

 すでに述べたように、源義親は義家の庶子であり、嫡子は日野有綱を母とする四人の兄弟で最も年長であった義忠であった。義親の乱の翌年に義忠が暗殺され、同母兄弟三番目の為義が後継者となった(二番目が足利・新田氏先祖義国)。『大山寺縁起』にも義親の乱について述べられているが、嘉承二年一二月一九日に追討使に補任され下向した因幡守平正盛により反乱は鎮圧され、翌年正月二二日には正盛からの解が朝廷で報告されている。出雲国に下向した正月六日に義親とその従類五人が誅せられており、これによればさほど大規模なものではなかったことになる。一方では一二月一九日以前には出雲国目代を殺害しており、近境の国々には義親に同意するものがあるとの噂もあったという(中右記)。
 以上のような疑問に対する一つの回答となるのが、隠岐国に配流されていた義親が出雲国に渡って反乱を起こしたのが嘉承二年六月であり、当時の出雲国知行国主が対馬守義親の濫行を摘発した大江匡房であったことである。家保を院近臣とするものが多いが、その母が乳母の一人であった堀河天皇の近臣にとどまった。出雲国が匡房の知行国となり、その養子藤原家保が国守に補任されたのは長治元年(一一〇四)正月二八日であった。前任は藤原清隆の叔父忠清で、二期目の任期を一年残して淡路守に遷任している。前述のように大江匡房による養子家保の出雲守補任要望を受けてのものであった。
 匡房が大宰権帥であった康和三年七月に義親の濫行が政府に告発され、追討使が派遣された。翌年正月に匡房は権帥を退任して帰京しており、二月二〇日に朝廷に届いた大宰府解でも反乱が続いていることが記されている。その後義親は捕らえられ、一二月には隠岐配流の処分となり、翌康和五年三月に実際に隠岐に送られた。家保の出雲守補任の一〇ヵ月前であった。

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