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2018年12月27日 (木)

因幡守藤原通基1

 大治二年一二月七日に因幡守に補任された藤原(持明院)通基について、「国司一覧」(『日本史総覧』)は長承元年正月一九日に重任し、同年一一月二三日まで現任が確認されるとしている。これに対して鳥取県史の「国司一覧表」では通基の現任が確認できるのは大治五年一一月四日までとし、長承元年一月一九日に重任している国守は西園寺通季だとしている。関係史料を確認してみる。通基は、正五位下中務大輔で陸奥守と鎮守府将軍を兼任した基頼の晩年の子であるが、その妻が待賢門院女房(上西門院乳母)であった関係で、その娘が待賢門院の甥である西園寺公通や三条実綱と結婚している。
 長承三年二月二四日には通季の嫡子西園寺公通が補任されている。この公通の嫡子実宗の母は持明院通基の娘である。大治四年一一月四日の現任を示す『時信記』同日条は県史史料編では省略されているが、ネット上で国文学研究資料館所蔵の画像で確認した。日吉行幸の記事で、出車三両を備中守藤原忠隆・土佐守藤原家長とともに、「因幡守通基」が負担している。これも県史では省略された『知信記』天承二年二月二八日条を宮内庁書陵部の画像データで確認すると、関白忠通が行った法成寺両塔供養の中で大殿(忠実)が加えた布施の内、導師への布施一五疋を因幡守通基朝臣が取ったことが記されている。さらには同年一一月二三日の五節雑事の「几帳帷」について「因幡通基」が一帖負担している(『中右記』)。
 以上のように、鳥取県史の理解とは異なり、因幡守の名前が確認できる史料ではすべて「通基」となっている。これに続く記事は『公卿補任』の西園寺公通に関するもので、長承三年二月二四日に因幡守に補任されたことが記されている。すでにみたように、公通は通季の嫡子で、持明院通基の娘を正室としていた。ただし、長承三年の時点では公通は一八才であり、父通季が知行国主であった可能性が大きい(通季は死亡しており、待賢門院分国である)。

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