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2018年12月11日 (火)

基隆と家保の差1

 藤原基隆は承保二年〈一〇七五)に生まれ、寛治二年(一〇八九)に一五才で叙爵、寛治四年には堀河天皇の昇殿を許され、左兵衛佐に補任されている。受領となったのは二〇才であるが、初任でなることは希な美作守(五味文彦氏のランクでは最上級)であった。前任の高階泰仲は補任二ヶ月で伊予守(最高ランク)に遷任している。美作守の前が讃岐守(最高ランク)であったように、白河院の有力近臣である。基隆に弾き飛ばされたものではなく、自らの意思で希望した伊予守になったものであろう。こうしてみると、二〇才の美作守基隆の背後には有力近臣が知行国主としていた可能性が大きいが、具体的人名は不明である。
 同母弟家保と異なり、「隆」の字を付け、それは嫡子忠隆(忠は母方の祖父藤原長忠にちなむものであろう)と同母弟経隆にも受け継がれている。父家範の曾祖父で「刀伊の入寇」を撃退したとされる隆家(道隆の子で伊周の弟)にちなむものであろう。堀河乳母である母家子の父家房は隆家の子である。基隆の母家子が乳母の一人であった堀河天皇は基隆の四才下であるが、義理の外祖父である関白師実の補佐を受けて政治を主導していたとされる。これに対して基隆の同母弟家保は父家範と母方の祖父家房にちなむものである。
 家保の生年は不明で、永長元年(一〇九六)四月には中務少輔に補任されていたことがわかる(大日方克己氏『平安後期の出雲国司』による)。兄基隆の叙爵・任官をみると五才程度年下(一〇八〇年頃出生)と考えられる。承徳二年(一〇九八)一一月二九日には中務大輔とみえ、康和五年(一一〇三)一二月三〇日には備後守(三番目のランク)に補任された。養父である大江匡房が知行国主であったことは前述のとおりである。後任の備後守は源俊房の子宗光である。他の兄弟が「師」や「時」をその名に付けているのと異なっている。母の名も不明であり晩年の子であった可能性が高い。系図には左京大夫とみえる(従四位下相当)。俊房の嫡子で、すでに参議となっていた兄師頼(三八才)が知行国主であった可能性がある。

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