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2018年12月 9日 (日)

知行国の返上・改給1

 嘉承二年(一一〇七)九月に参河国(給封)を返上して、伯耆国の改給を求める解が提出されている(朝野群載)。提出者の名前は無いが、これを収録した『愛知県史』史料編六では三河守藤原隆頼を提出者としている。ただし、一〇七五年生の基隆を父とし、同年齢の源師隆の娘を妻とする隆頼はなお一〇代であったと思われ、解の提出者は三河国知行国主である父基隆であろう。康和三年(一一〇一)以降の返上・改給の先例としてあげられている人名もすべて公卿であり、知行国主であった。三河国より伯耆国が望ましいとは意外な気がするが、都と水運でつながっている点と、当時の伯耆守高階為遠(長治二年正月に重任し、年末には四年が経過)の動向もあったと思われる。
 最初の康和三年の例と思われる中宮大夫源朝臣とは大納言源師忠のことで、その子が前述の師隆であるが、寛治七年(一〇九三)には正四位下に叙せられ、永長二年(一〇九七)には讃岐権守に補任されている。師忠がどこの国主であったかは不明だが、国守としたのは師隆の異母弟師親(当時一〇代前半であったと推測されるが、四年後に死亡している)ではないか。
 二例目の「大納言藤原朝臣」は閑院流の藤原公実であろうか。子通季が康和六年(一一〇四)正月に美作守に補任されているが、これは国司としては初任である。当初別の国が示されたのが変更されたものであろうか。前任の美作守藤原顕季は康和三年七月に補任されており、任期半ばであった。顕季は美作守の前は播磨守であったが、藤原基隆と相博している。あるいは公実の子でありながら公卿とならなかった実兼(通季の異母兄)の国守補任に関わるものであろうか。

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