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2018年11月28日 (水)

後白河起用の意味

 後白河天皇の即位は待賢門院流の分断を意図したものであったと述べた。即位とともに昇殿を認められた人々(その時点の官職を付している)についてみていく。
 やはり目立つのが待賢門院の兄弟の子孫〈閑院家流)である。異母兄三条実行の嫡子公教の庶子右近少将実国は一六才であった。庶兄実綱の一二才年下であった。実行の庶子公行の嫡子左近少将実長は従兄弟実綱と同年齢である。待賢門院の異母弟季成の子右近少将公光は二六才であった。
 待賢門院の同母兄西園寺通季の子・孫はみえないが、年齢が関係していよう。嫡孫実宗はまだ一一才であった。同母兄徳大寺実能の庶子左近少将公親は二五才、左近少将公保は二四才であった。公保は仁平二年には後白河の姉統子内親王給で従四位上に叙せられていた。実能の嫡孫左近少将実定は一七才であった。姉が頼長の妻であったこともあり、元服は頼長邸で行っていた。
 左近中将隆長は頼長の子で一五才であった。同母(源師俊娘)兄兼長とともに保元の乱で配流された以降の動静は不明である。右近中将光忠は藤原経実の晩年の子で、この当時四一才である。その姉妹が後白河との間に二条天皇を産んでいる。右近少将行通は信通と藤原基隆娘の間にうまれた子である。生年は不明であるが、これも当時四〇才前後であろう。右近少将俊通は藤原宗輔の子で、当時二八才である。父宗輔は一三才で頼長が権中納言に補任された際の同僚で、四三才の年齢差にもかかわらず親しくしていたとされる。
 右近衛権中将師仲は待賢門院別当で『長秋記』の記主として知られる源師時の子で、当時四〇才であった。その待賢門院女房右衛門督を母とし、姉妹も待賢門院女房であった。左衛門権中将成雅は忠実・頼長父子との関係で知られる。生年は不明だが四〇才前後であろうか。保元の乱で配流後復活し、後白河の近臣となったが、鹿ヶ谷の陰謀で再び配流された。右近少将定房は源雅兼と待賢門院庁の別当の筆頭であった源能俊娘の間に生まれた。当時二六才である。
 最後に、家長については官職部分が判読できず、系譜の特定ができないが、同時代に活動していた鳥羽院の寵臣家成(一一五四年に四八才で死亡)の兄家長と同一人物とすれば五〇才過ぎである。家長もまた鳥羽の近臣でもあったが、保元の乱では崇德・頼長方となり、乱後出家したとされ、その後の動向は史料を欠いている。なお、佐伯智宏氏によれば家成は本来、白河院が孫崇德の側近として配置したが、鳥羽が自らの近臣にしたとされる。
 以上のように、後白河が待賢門院の子であるから当然ではあるが、本来待賢門院流の嫡子である崇德院を支えるはずの人材が後白河天皇の近臣として引き抜かれた形となっているのは前述の女房の問題と同じであった。一〇才後半から二〇才後半の閑院家流の子孫と四〇才前後の関係者が後白河の殿上人に選ばれている。

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