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2018年11月

2018年11月28日 (水)

後白河起用の意味

 後白河天皇の即位は待賢門院流の分断を意図したものであったと述べた。即位とともに昇殿を認められた人々(その時点の官職を付している)についてみていく。
 やはり目立つのが待賢門院の兄弟の子孫〈閑院家流)である。異母兄三条実行の嫡子公教の庶子右近少将実国は一六才であった。庶兄実綱の一二才年下であった。実行の庶子公行の嫡子左近少将実長は従兄弟実綱と同年齢である。待賢門院の異母弟季成の子右近少将公光は二六才であった。
 待賢門院の同母兄西園寺通季の子・孫はみえないが、年齢が関係していよう。嫡孫実宗はまだ一一才であった。同母兄徳大寺実能の庶子左近少将公親は二五才、左近少将公保は二四才であった。公保は仁平二年には後白河の姉統子内親王給で従四位上に叙せられていた。実能の嫡孫左近少将実定は一七才であった。姉が頼長の妻であったこともあり、元服は頼長邸で行っていた。
 左近中将隆長は頼長の子で一五才であった。同母(源師俊娘)兄兼長とともに保元の乱で配流された以降の動静は不明である。右近中将光忠は藤原経実の晩年の子で、この当時四一才である。その姉妹が後白河との間に二条天皇を産んでいる。右近少将行通は信通と藤原基隆娘の間にうまれた子である。生年は不明であるが、これも当時四〇才前後であろう。右近少将俊通は藤原宗輔の子で、当時二八才である。父宗輔は一三才で頼長が権中納言に補任された際の同僚で、四三才の年齢差にもかかわらず親しくしていたとされる。
 右近衛権中将師仲は待賢門院別当で『長秋記』の記主として知られる源師時の子で、当時四〇才であった。その待賢門院女房右衛門督を母とし、姉妹も待賢門院女房であった。左衛門権中将成雅は忠実・頼長父子との関係で知られる。生年は不明だが四〇才前後であろうか。保元の乱で配流後復活し、後白河の近臣となったが、鹿ヶ谷の陰謀で再び配流された。右近少将定房は源雅兼と待賢門院庁の別当の筆頭であった源能俊娘の間に生まれた。当時二六才である。
 最後に、家長については官職部分が判読できず、系譜の特定ができないが、同時代に活動していた鳥羽院の寵臣家成(一一五四年に四八才で死亡)の兄家長と同一人物とすれば五〇才過ぎである。家長もまた鳥羽の近臣でもあったが、保元の乱では崇德・頼長方となり、乱後出家したとされ、その後の動向は史料を欠いている。なお、佐伯智宏氏によれば家成は本来、白河院が孫崇德の側近として配置したが、鳥羽が自らの近臣にしたとされる。
 以上のように、後白河が待賢門院の子であるから当然ではあるが、本来待賢門院流の嫡子である崇德院を支えるはずの人材が後白河天皇の近臣として引き抜かれた形となっているのは前述の女房の問題と同じであった。一〇才後半から二〇才後半の閑院家流の子孫と四〇才前後の関係者が後白河の殿上人に選ばれている。

2018年11月19日 (月)

待賢門院と仁和寺領

 待賢門院の御願寺法金剛院は真言宗寺院で、女院も仁和寺と深い関係を有していた。一方、日野実光の弟資光と子資憲は待賢門院とその後継者崇德院の側近であった。大治五年から保延四年まで出雲国が女院の分国であった際に、円勝寺領長海庄や吉田家領園山庄だけでなく、仁和寺領や日野氏領が立券・寄進された可能性がある。
 園山庄については前に述べたが内容を一部修正する。院近臣藤原為房の子の中で、顕隆は院との関係が強く、その兄為隆は摂関家との関係が強いが、院との関係と摂関家との関係は十分両立しうるものである。為隆と顕隆は源頼国の娘を母とする同母兄弟である。為房の子と待賢門院の母光子は兄弟であり、その子達は従兄弟(従姉妹)の関係にあった。
 為隆の子憲方と光房は藤原有佐の娘を母とする同母兄弟であり、兄憲方は女院の御願寺法金剛院の東新造御所を造営するなど、女院との関係が深かったが、為隆の子の中には公卿に進むものはおらず、光房の子で頼朝との緊密な関係で知られる孫経房が四一才であった養和元年一二月に、祖父為隆以来六一年ぶりに公卿になった。園山庄は憲方を領家として寄進・立券され、その後、一族で公卿となった光房の嫡子経房がこれを継承したのではないか。
 出雲国で仁和寺領であることが確認できるのは大原郡広田庄であるが、同郡内仁和寺庄もその可能性が高い。近江国内にも仁和寺庄があり、一六世紀初頭にはその支配権(領家職であろう)をめぐって、日野氏と仁和寺との間で対立が生じているが、両者ともその支配は現地の国人による浸食によって有名無実となっていった。戦国期の日野家所領目録には近江国仁和寺庄はみえないが、出雲国仁和寺庄はなおみえている。目録には出雲国広田庄はみえず、越中国山田郷と因幡国国衙の間に「同国広田庄」がみえるが、暦博の庄園データベースには越中国内にみえず、出雲国広田庄の誤りではないが。

2018年11月10日 (土)

出雲守能盛再論2

 能盛の方が年齢が上なのか、寵愛が勝ったのかのいずれかであろうが(おそらくは後者)、五位叙任は嘉応三年三月と師高に先行している。師高は承安三年(一一七三)一〇月一六日の時点でもなお正六位上であり(百練抄)、翌四年八月二七日の時点で五位(大夫尉)であることが確認できる(玉葉)。能盛は出雲守に補任された承安四年正月以前に五位に叙されていた。
 能盛の父成景が能盛と名乗った時期があったとすれば、上記の関係史料はスムーズにつながり、それゆえに、成景の子で盛景の養子とするものと、盛景の実子とするものがあるような混乱が生まれたのではないか。
 なお、能盛は嘉応三年三月一二日には「大和大夫尉能盛」(清獬眼抄)とみえ、この時点では父の兄弟盛景の養子となっていた。能盛が養父盛景より位階の上昇が早いのは父成景との関係ならびに後白河の寵愛が大きかったであろう。能盛の活動時期が、父成景と西光(藤原師光)の関係をみることで、より明らかとなった。安芸守能盛とは当然別人である。
 師高がみえた「玉葉」承安四年(一一七四)八月二七日条には参内した公卿の中で散位であった人物として「出雲三位朝方」とあるが、この時点では出雲国から石見国の知行国主に遷任していたが、ながらく出雲国国主であったため、このように記されたと思われる(後白河院分国で知行国主が朝方という可能性も皆無ではないが、子である国守朝定が石見守に遷任している)。散位としては「能登三位基家」がおり、こちらは平通盛を国守としている能登国知行国主であった。通盛は平教盛(忠盛と待賢門院女房との間に生まれた)と日野資憲の娘との間に生まれ、上西門院女房小宰相(藤原為隆の子憲方と為房の弟顕隆の娘との間に生まれた)を妻としていた。知行国主持明院基家は上西門院一条を母とし、上西門院因幡を妻としていた。二人ともいわゆる待賢門院流に属していた。

出雲守能盛再論1

 出雲守能盛については何度か述べたが、系図では能盛を盛景の養子とするもの(地下家伝)と特に記さないもの(尊卑分脈)があり、信盛については両方とも養子(随身磯部公春の子)としている。諸系図を集成して作成された『宮廷公家系図集覧』では地下家伝と同様養子説をとっているが、どちらを採用すべきかは微妙である。情報が混乱した背景を含めて述べてみる。
 平家物語の「中にも故少納言信西がもとにめしつかひける師光・成景という者あり。師光は阿波国の在庁、成景は京の者、熟根いやしきげろうなり。健児童もしは格勤者などにて召しつかはれけるが、さかざかしかりしによて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とて、二人一度に靫負尉になりぬ。信西がことにあひし時、二人ともに出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬とて、是は出家の後も院の御倉あずかりにてぞありける」とある成景と「古本保元物語」の頼長の首実検の記事で資俊・師光とともに派遣された滝口能盛は同一人物であろう(「成景」の誤りヵ)。保元の乱の結果、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉に補任されるが(能盛が右衛門尉に補任されたという「兵範記」の記事との関係は微妙。成景が以前は能盛と名乗っていたのならすっきりつながるが。一方では二七日に右衛門尉に補任されている「大江成景」も気になる)、平治の乱で主人信西入道が殺害されたため出家して、師光は西光、成景(能盛)は西敬(景)となる。
 次いで嘉応二年(一一七〇)四月一七日に西光の子師高と成景の子能盛が同時に左衛門少尉正六位上の補任されている。師高は安元元年(一一七五)一二月末に父西光が知行国主(その上に院分国主後白河がいた可能性大、直前まで加賀国は上西門院の分国であった)である加賀国の守となり、能盛はその前年正月に後白河が分国主である出雲国の守となっている。承安三年一〇月一六日には検非違使師高が強盗一〇人を捕らえているが(百練抄)、これも西光の子師高であろう。

2018年11月 6日 (火)

源光隆再論3

 久安元年七月に光隆が、八月には待賢門院が死亡した後の高階家行について確認する。仁平二年六月に法成寺西御塔の造営が始まったが、その功を担ったのは家行の子佐渡守高階為清であった。佐渡国は為清の前任者藤原光盛、さらには前々任者平盛兼の時期は忠通の知行国であり、為清も同様の立場にあったと思われる。
 五味文彦氏は保元元年九月一七日に摂関家家司として有名な藤原邦綱が和泉守に補任された時点から和泉国を忠通の知行国としているが、康治元年正月補任の光盛まで遡るとすべきである。和泉国は待賢門院分国から摂関家分国となった。光盛は久安五年一二月三〇日には佐渡守平盛兼と相博している。盛兼の佐渡守現任は久安三年七月二四日に確認できるが、久安元年一二月三〇日に重任した某も盛兼に比定でき、康治元年正月に佐渡国衙忠通の知行国となり、盛兼が補任されたものであろう。
 法成寺造営を担った大工国真は、待賢門院分国の国守であった光隆を補佐した家行による造営の際の大工でもあった。仁安三年一〇月一八日の西塔棟上には成功者為清に代わって父家行が行事を行っている。
 左大臣藤原頼長の嫡子中納言中将兼長が仁平四年正月に春日祭の上卿となり南都に発向した際に、殿上人二七人が前駈をしているが、一院(鳥羽)、新院(崇德)、高陽院の殿上人が区別して記されている。大舎人頭家行は先頭の丹後守俊盛(美福門院側近)とともに一院の殿上人とされている。新院殿上人は九人みえるが、左馬権頭実清のように、保元の乱では崇德方となっている。高陽院の殿上人には忠盛の弟で崇德院方となった平忠正の名もみえる。以上から、待賢門院の死後、高階家行・為清父子は関白忠通や鳥羽院との関係が強かったことがわかる。
 仁平三年正月七日の除目で藤原光盛が正五位下に叙されている。本来なら中宮(忠通の養女呈子)大進の労によるものであるが、佐渡守の未勘公文の問題があったため「臨時御給」での叙位となった。摂関家家司であった。従五位上には三一才の平頼盛とその異母兄で三六才の教盛が補任されている。頼盛は一院給で判官代労によるもので、教盛は新院御給であった。両者とも待賢門院流の一員ではあるが、教盛の方かより崇德との関係が強かったことになる。なお除目の八日後に両者の父忠盛は五八才で死亡している。教盛の母は藤原家隆(師通の子)の娘で待賢門院女房であった。

源光隆再論2

 これが基隆が能俊より先に死亡したため、光隆は待賢門院判官代高階家行の娘と結婚し、待賢門院の分国となった出雲国の国守となったのだろう。家行の娘が待賢門院の第一皇女禧子内親王の女房となっていたが、内親王は長承二年(一一三三)に一二才で早世している。一方、待賢門院の第四皇子雅仁が後白河天皇として即位した際に、待賢門院女房経験者二名が勾当内侍ととされている(兵範記。安元三年には後白河の娘で前斎院式子内親王の女房として〈左衛門佐 家行女」がみえる)。関白藤原忠通は女房土佐と阿波を推した。土佐は大治四年には法金剛院御所の襖に名所絵を描くほどの女流絵師であり、女房の経験も豊富であったと思われるが、「旧主之恩」を理由に固辞したため、新たに前斎院女房小備中が阿波とともに勾当内侍に補任された。家行の娘が禧子内親王の死後、その妹である第二皇女統子内親王の女房となり、次いで後白河天皇の勾当内侍に転じたのであろう。光隆と結婚していたのはこの女性であろう。
 もう一人の阿波は待賢門院別当から崇德院の別当へ転じていたが、弟後白河の即位により天皇の勾当内侍とされていた。阿波は崇德院の最側近日野資憲との間に俊光を生んでいるが、後白河の即位に際し、俊光と日野資光の子盛業(阿波の弟)が天皇の蔵人に補任されている。後白河即位は、信西入道と美福門院によって近衛天皇の後継者となった二条即位の環境を整えるためのものとされるが、それ以上に崇德が中心となっている待賢門院流が一枚岩となることを阻止するためのものであった。平忠盛の後家池禅尼が頼盛に天皇方となることを指示したことにより、忠盛流の分裂が回避されたことはよく知られている。崇德の最側近資憲がなぜ出家という途を選んだのか不可解であったのが、子俊光の蔵人起用が原因かと得心したが、それ以上の取り込みがなされていた。すでに述べたように、池禅尼が頼朝の助命を図ったのはその容貌が故家盛に似ていたからではなく、苦渋の選択で敵とならざるを得なかった頼朝のことを日野家を介してよく知っており、ともに待賢門院流の一員であったからである。

 

源光隆再論1

 出雲守と安芸守を務めた光隆について系図上の位置づけは不明であるとしたが、『広島県史』古代中世資料編1では安芸守源光隆について醍醐源氏能俊の子ヵとしている。院政期を中心に知行国主・国守を系図の上に落とした自作ファイル(一太郎)を作成しているが、そこでも以前に同様の推定をしていた。これが正解だと思われる。
 能俊は白河院の近臣俊明の子である。鳥羽天皇が即位した際には外戚である藤原公実が摂政の地位を望んだが、俊明が反対したことで、外戚に関係なく忠実の子孫が摂関を継承するきっかけをつくった。能俊も白河院庁の有力院司(別当)であったが、天治元年一一月に璋子が院号宣下をうけた際には中宮大夫から待賢門院庁筆頭別当に補任されている。
 能俊の母は藤原師基の娘であったが、その兄弟国明を俊明は養子としていた。国明は醍醐源氏家実の子為忠を養子としたが、為忠の母は高階為家の娘であった。源(藤原)光隆の生年は『中右記』によれば保安三年(一一二二)、『本朝世紀』にみえる没年と年齢が正しいとすると二年後の保安五年となる。父能俊は長承三年(一一三四)に六四才で死亡しており、光隆は能俊が五〇才ないしは五二才の時の晩年の子となる。能俊の嫡子は清和源氏頼綱の娘を母とする俊雅で、光隆よりも二〇才前後年長であった。光隆が「藤原」となったのは祖母(能俊の母)が藤原師基の娘であったことによると思われる。光隆が院近臣藤原基隆後家の猶子となったのは、基隆の祖父師家と能俊の母方の祖父師基が同母兄弟であったためであろう。
 晩年の子で、能俊が死亡した時点で一〇才ないしは一二才であった子の将来を院近臣基隆に託したのであろうか。ただし、基隆は能俊に先んじて天承二年(一一三二)に五八才で死亡したため、基隆後家の猶子と記されたのであろう。基隆も堀河天皇の乳母子であることを背景に白河院の近臣となっていたが、元永元年正月に璋子が中宮となった際には、伊予守基隆が調度を調進し、二年六月に鳥羽と待賢門院の長子として誕生した顕仁親王(崇德)家職員が定められた際には播磨守基隆は政所別当となっていた。大治三年〈一一二八)一二月の待賢門院庁牒では公卿別当四人に次ぐ四位別当筆頭として署判を加えている。

 

2018年11月 1日 (木)

池禅尼と頼朝5

卜部兼仲がいつまで和泉守であったかを示す史料はないが、康治元年正月二三日には日野実光の子で資憲・資長の弟光盛が和泉守に補任されており、重任することなく一期四年で退任したと思われる。光盛は待賢門院・崇德院との関係はうかがわれず、この時点で待賢門院の分国ではなくなったと思われる。兼仲についてもこれ以降国守に補任されたことは確認できない。これに対して、康治元年一二月一三日に日野資憲が下野守に現任していることと、それを天養元年一二月三〇日に辞任していること、さらには、仁平二年(一一五二)八月一四日に藤原頼長が石清水八幡宮に参詣した際に供奉した院殿上人の中に前下野守宗長がみえることが注目される。康治元年正月に石見国に代わって下野国が待賢門院ないしは崇德院分国となり、日野資憲が国守となったのではないか。一方、宗長は石見守を二期八年務め、資憲の後任として下野守に遷任し、代わって久安元年正月二六日には藤原忠実を知行国主としてその家司源清忠が石見守に補任されたのではないか。『本朝世紀』仁平三年(一二五三)六月一五日条に前下野守宗長が最近死亡したことが記されている。
 日野資憲は長承三年(一一三四)三月一九日に藤原忠実の娘泰子が皇后宮とされた際には大夫頼長のもとで権大進に補任されている。日野氏は摂関家との関わりが深かった。保延元年八月二二日には『長秋記』の記主である源師時が夜に鳥羽院のもとに参っているが、資憲と通じて奏している。これが久安五年一〇月一六日には頼長の子師長が昇殿を認められ鳥羽院、崇德院、高陽院、美福門院のもとを訪れているが、崇德院には判官代勘解由次官資憲を通じて名簿を提出している。仁平二年二月一三日には頼長の子隆長が四位に叙せられたことの慶賀として各院を訪問しているが、崇德院については別当資憲を通じて奏している。資憲が実務を行う判官代から別当の一人に昇格したことがわかる。資憲の妻が待賢門院並びに崇德院女房阿波であったことは前に述べた。 

池禅尼と頼朝4

 日野有信の子資光は待賢門院の皇子出産に関する行事で頻出(学問の関係のみではない)しているが、中宮大夫進から待賢門院庁判官代となり実務をとり仕切っていた。この資光は長承元年(一一三二)二月一七日に五〇才で死亡した(『中右記』)。一〇七三年の生まれとなる。九才年長の藤原宗忠(一〇六二年生)は年来父子の契約を結んでおり大変哀しいことだとコメントしている。ここ三年は風病により籠居していたとも記している。
 この資光の後継者として待賢門院判官代として実務を担当したのが宗長であった。大治五年一月三日には若君(頼長)が鳥羽院ならびに待賢門院を訪問・対面しているが、鳥羽院は五位判官代出雲守経隆を通じて奏し、女院は五位判官代宗長を通している。(『中右記』)。長承三年二月六日には鳥羽院と待賢門院が熊野参詣から還御しているが、女院の池田御所には判官代和泉守宗長が勤仕していた。
 父宗兼は近江守とともに和泉守を歴任していた。一度目は保安二年(一一二一)から天治元年(一一二四)初めにかけてで、日野実光の跡をうけて近江守に遷任し、その七年後の天承元年(一一三二)二月には近江守から二度目の和泉守に遷任している。長承三年閏一二月に重任した某が宗兼と思われるが、それに次いで確認できるのは保延三年(一一三七)一二月二九日に宗兼の子宗長が、石見守卜部兼仲と相博していることである。宗兼の没年は不明であるが、重任任期の途中で宗長に交替したと思われる。
 卜部兼仲は出産時の祈祷などを通じて待賢門院の信任を得て、大治四年八月二八日に石見守に補任され、公家社会の人々を驚かせた(『長秋記』)。また、藤原頼長は久安三年(一一四七)五月に橘氏氏院である学官院を作ることを条件に、本来の支配者であった橘氏氏長者に代わって兼仲・基仲兄弟に梅宮社領宇多庄の支配権を認めたが、それに関して鳥羽院の意見を求めたところ、待賢門院が死亡する際に卜部兼仲に宇多庄を与えることを遺言していたとして、賛意を表した(『台記』)。兼仲が待賢門院庁の役人になったことは確認できないが、久安元年に院が死亡するまで兼仲に対する院の信頼は変わらなかったことが確認できる。

池禅尼と頼朝3

 備後守実信は待賢門院の父公実の兄弟保実の子、紀伊守季輔は同じく兄弟である仲実の子である。和泉守範隆は清隆の弟で中宮権少進から待賢門院判官代を務めた。若狭守隆頼は白河院の近臣から待賢門院別当となった藤原基隆の子である。越中守顕定は源雅俊の子で、父の甥にあたる雅定(久我家二代目当主)の養子となった。母は源(藤原)国明の娘であり、安芸守為忠の姉妹となる。為忠より一世代下となるが、越中守以外の受領歴は確認できず、長承二年(一一三三)七月一六日には越中前司とみえる。「権弁太郎童」の元服で加冠者藤原宗忠、理髪者憲俊(兄=国明子で鳥羽院職事)とともに立ち会い「指燭」(明かりをかざす役?)を務めている。顕定の子で東寺長者となった定遍も長承二年の生まれであるが、雅定の養子に入っている。定遍が成人する前に父顕定が死亡した可能性が高い。
 池禅尼は平忠盛の妻で頼盛の母であるのみならず、平治の乱後に頼朝の助命をし、それが実現したことで知られているが、その生没年代や母については確実な情報を欠いている。実物を確認していないが、系図一本には長治元年(一一〇四)生まれで長寛二年(一一六四)に六一才で死亡したとあり、日野有信の娘が母とあるようだ。禅尼の長子家盛が一一二三年頃の生まれ(一一四九年に一七才?で死亡。『平治物語』では二三才とあるが、それなら一一一七年の生まれとなり、一一一八年生の清盛の兄となってしまう)、次子頼盛は長承二年(一一三三)の生まれである。
 禅尼の兄と思われる宗長については有信娘が母であると系図に明記されているが、同母兄の可能性が高いのではないか。日野有信は崇德院の近臣資憲の祖父であるが、その兄弟有綱の娘が義家の妻として産んだのが為義であることはすでに述べた。また資憲の母は有信の兄弟有定の娘である。禅尼の母が有信娘ならば、禅尼と為義並びに資憲の母は従姉妹の関係にあったことになる。『平治物語』では頼朝が禅尼の子で早世した家盛に生き写しであったころから助命を行ったとされるが、一方、元木泰雄氏は頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の子統子内親王)関係者や頼朝の母の実家で待賢門院女房が複数確認できる熱田大神宮家の働きかけによるとの説を提示し、五味文彦氏は頼朝の祖父為義の妻=義朝の母(藤原忠清の娘)が待賢門院女房であった可能性が強いことを説いているが、禅尼は母親との関係で頼朝を以前から知っていた可能性が高い。

池禅尼と頼朝2

 出雲守憲方は父為隆と藤原有佐娘の間に生まれている。有佐の姉妹が堀河乳母で敦兼の母となった兼子である。大治三年造営の待賢門院御願寺法金剛院の東新造御所の造営にあたったのは周防守憲方であった。保延元年(一一三五)三月二七日には鳥羽院による初渡が行われている。保延二年二月一一日以降は鳥羽院庁下文の署判者としてみえ、永治元年(一一四一)一二月に近衛天皇が即位したことにともない母得子が皇后に立后されると皇后宮大進となっている。その一方で、康治二年七月一一日に待賢門院の子で前斎院統子内親王が新造された三条室町殿に移徒した際には大蔵卿藤原通基、越中守源資賢とともに職事としてみえ、待賢門院との関係も維持していた。
 甲斐守雅職の祖父高実と父清実は受領を歴任しているが、その姉妹は藤原顕頼の室となっている。安芸守為忠は藤原知信と藤原有佐の娘との間に生まれており、憲方とは従兄弟となる。母は藤原敦兼の従姉妹となる。安芸守から三河守へ遷任し、さらに丹後守に遷任して受領を歴任した。三河守は源有賢の後任であり、丹後守は有賢の子資賢と相博する形であった。為忠の母と資賢の母はともに高階為家の娘であり、両者は従兄弟であった。また両者の従姉妹には白河院尾張、待賢門院女房遠江内侍、藤原清隆の妻もいる。

 宗兼は隆宗の子でその姉妹は藤原家保の妻で家成の母である宗子で、崇德天皇の乳母でもあった。家保の兄が白河院の寵臣で、その晩年の娘得子であるため、池禅尼と美福門院得子との関係が指摘されるが、禅尼の父宗兼が通仁親王五夜の負担を課されているように、より待賢門院-崇德との関係が深かった。それにゆえに崇德の子重仁の乳母となった。乳母となったので、保元の乱で選択に迷ったわけではない。忠盛は待賢門院庁の別当の一人であった。

池禅尼と頼朝1

 藤原宗兼は平忠盛の後妻(正室)池禅尼の父として知られているが、その関係史料をみていく。前に保安五年(一一二四)三月の鳥羽院第二皇子通仁親王の御七夜の諸国所課について触れたが、御三夜と御五夜の所課(饗)について確認する。
 三夜からみると、上達部二〇前と殿上人二〇前はいずれも藤原清隆(讃岐国)が、侍所二〇前は藤原顕頼(丹波国、顕隆子)が負担している。女房衝重六〇前は平実親と日野資光が三〇前ずつ負担しているが、両者ともこの時点ではいずれの国の国守でもない。庁二〇前を負担している源憲盛(蔵人等雑色)についても同様である。三夜については国守というよりは中宮璋子の関係者に負担を課していると考えられる。饗以外では御前物は中宮大夫(源能俊)が、児御衣は中宮権大夫(西園寺通季)と花山院忠宗が負担している。
 同年(天治元年と改元)一一月に中宮から院号を与えられ待賢門院庁が成立した時点で大夫能俊、権大夫通季、亮顕隆(顕頼の父)、権亮家保・忠宗が待賢門院庁別当となり、権大進実親、少進資光と権少進高階通憲(後の信西入道)が判官代になっている。
 これに対して五夜は七夜と同様諸国に課している。御前物は藤原敦兼(備中守)が、威儀御膳は源有賢(三河守)、御膳用の餅・菓子は藤原顕盛(伯耆国)・源雅職(甲斐守)・藤原憲方(出雲国)・藤原為忠(安芸国)が、御衣は藤原顕盛が負担している。饗は上達部二〇前を藤原宗兼(近江守)、殿上人二〇前を藤原実信(備後守)、侍所三〇前を藤原季輔(紀伊守)、庁三〇前を藤原範隆(和泉守)、女房衝重三〇ずつを藤原隆頼(若狭守)と源顕定(越中守)が負担し、饗全体の担当は藤原顕頼(丹波守)である。その他屯食三〇具は平忠盛(越前守)が、禄は藤原顕能(備前守、顕隆子)が負担している。
  備中守藤原敦兼は父敦家とその姪(顕綱娘)で堀河天皇の乳母となった兼子の間に生まれ、大治三年(一一二八)一二月待賢門院庁牒の署判者としてみえる。三河守有賢は雅楽の家の出であったが白河院に接近して受領を歴任し、自らは院庁の四位別当、その子資賢(母は高階為家娘)は判官代となった。その後、親子は鳥羽院の近臣となる。有賢は平正盛の娘との間に子宗賢をなしているが、永久五年(一一一七)一一月に璋子の家司が定められた際には正盛・忠盛父子は政所の五位別当としてみえる。伯耆守顕盛は白河院近臣長実と院が寵愛した娘郁芳門院女房との間に生まれ、璋子の侍所の五位別当としてみえる。

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