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2018年11月 1日 (木)

池禅尼と頼朝5

卜部兼仲がいつまで和泉守であったかを示す史料はないが、康治元年正月二三日には日野実光の子で資憲・資長の弟光盛が和泉守に補任されており、重任することなく一期四年で退任したと思われる。光盛は待賢門院・崇德院との関係はうかがわれず、この時点で待賢門院の分国ではなくなったと思われる。兼仲についてもこれ以降国守に補任されたことは確認できない。これに対して、康治元年一二月一三日に日野資憲が下野守に現任していることと、それを天養元年一二月三〇日に辞任していること、さらには、仁平二年(一一五二)八月一四日に藤原頼長が石清水八幡宮に参詣した際に供奉した院殿上人の中に前下野守宗長がみえることが注目される。康治元年正月に石見国に代わって下野国が待賢門院ないしは崇德院分国となり、日野資憲が国守となったのではないか。一方、宗長は石見守を二期八年務め、資憲の後任として下野守に遷任し、代わって久安元年正月二六日には藤原忠実を知行国主としてその家司源清忠が石見守に補任されたのではないか。『本朝世紀』仁平三年(一二五三)六月一五日条に前下野守宗長が最近死亡したことが記されている。
 日野資憲は長承三年(一一三四)三月一九日に藤原忠実の娘泰子が皇后宮とされた際には大夫頼長のもとで権大進に補任されている。日野氏は摂関家との関わりが深かった。保延元年八月二二日には『長秋記』の記主である源師時が夜に鳥羽院のもとに参っているが、資憲と通じて奏している。これが久安五年一〇月一六日には頼長の子師長が昇殿を認められ鳥羽院、崇德院、高陽院、美福門院のもとを訪れているが、崇德院には判官代勘解由次官資憲を通じて名簿を提出している。仁平二年二月一三日には頼長の子隆長が四位に叙せられたことの慶賀として各院を訪問しているが、崇德院については別当資憲を通じて奏している。資憲が実務を行う判官代から別当の一人に昇格したことがわかる。資憲の妻が待賢門院並びに崇德院女房阿波であったことは前に述べた。 

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