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2018年11月 1日 (木)

池禅尼と頼朝4

 日野有信の子資光は待賢門院の皇子出産に関する行事で頻出(学問の関係のみではない)しているが、中宮大夫進から待賢門院庁判官代となり実務をとり仕切っていた。この資光は長承元年(一一三二)二月一七日に五〇才で死亡した(『中右記』)。一〇七三年の生まれとなる。九才年長の藤原宗忠(一〇六二年生)は年来父子の契約を結んでおり大変哀しいことだとコメントしている。ここ三年は風病により籠居していたとも記している。
 この資光の後継者として待賢門院判官代として実務を担当したのが宗長であった。大治五年一月三日には若君(頼長)が鳥羽院ならびに待賢門院を訪問・対面しているが、鳥羽院は五位判官代出雲守経隆を通じて奏し、女院は五位判官代宗長を通している。(『中右記』)。長承三年二月六日には鳥羽院と待賢門院が熊野参詣から還御しているが、女院の池田御所には判官代和泉守宗長が勤仕していた。
 父宗兼は近江守とともに和泉守を歴任していた。一度目は保安二年(一一二一)から天治元年(一一二四)初めにかけてで、日野実光の跡をうけて近江守に遷任し、その七年後の天承元年(一一三二)二月には近江守から二度目の和泉守に遷任している。長承三年閏一二月に重任した某が宗兼と思われるが、それに次いで確認できるのは保延三年(一一三七)一二月二九日に宗兼の子宗長が、石見守卜部兼仲と相博していることである。宗兼の没年は不明であるが、重任任期の途中で宗長に交替したと思われる。
 卜部兼仲は出産時の祈祷などを通じて待賢門院の信任を得て、大治四年八月二八日に石見守に補任され、公家社会の人々を驚かせた(『長秋記』)。また、藤原頼長は久安三年(一一四七)五月に橘氏氏院である学官院を作ることを条件に、本来の支配者であった橘氏氏長者に代わって兼仲・基仲兄弟に梅宮社領宇多庄の支配権を認めたが、それに関して鳥羽院の意見を求めたところ、待賢門院が死亡する際に卜部兼仲に宇多庄を与えることを遺言していたとして、賛意を表した(『台記』)。兼仲が待賢門院庁の役人になったことは確認できないが、久安元年に院が死亡するまで兼仲に対する院の信頼は変わらなかったことが確認できる。

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