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2018年11月 6日 (火)

源光隆再論3

 久安元年七月に光隆が、八月には待賢門院が死亡した後の高階家行について確認する。仁平二年六月に法成寺西御塔の造営が始まったが、その功を担ったのは家行の子佐渡守高階為清であった。佐渡国は為清の前任者藤原光盛、さらには前々任者平盛兼の時期は忠通の知行国であり、為清も同様の立場にあったと思われる。
 五味文彦氏は保元元年九月一七日に摂関家家司として有名な藤原邦綱が和泉守に補任された時点から和泉国を忠通の知行国としているが、康治元年正月補任の光盛まで遡るとすべきである。和泉国は待賢門院分国から摂関家分国となった。光盛は久安五年一二月三〇日には佐渡守平盛兼と相博している。盛兼の佐渡守現任は久安三年七月二四日に確認できるが、久安元年一二月三〇日に重任した某も盛兼に比定でき、康治元年正月に佐渡国衙忠通の知行国となり、盛兼が補任されたものであろう。
 法成寺造営を担った大工国真は、待賢門院分国の国守であった光隆を補佐した家行による造営の際の大工でもあった。仁安三年一〇月一八日の西塔棟上には成功者為清に代わって父家行が行事を行っている。
 左大臣藤原頼長の嫡子中納言中将兼長が仁平四年正月に春日祭の上卿となり南都に発向した際に、殿上人二七人が前駈をしているが、一院(鳥羽)、新院(崇德)、高陽院の殿上人が区別して記されている。大舎人頭家行は先頭の丹後守俊盛(美福門院側近)とともに一院の殿上人とされている。新院殿上人は九人みえるが、左馬権頭実清のように、保元の乱では崇德方となっている。高陽院の殿上人には忠盛の弟で崇德院方となった平忠正の名もみえる。以上から、待賢門院の死後、高階家行・為清父子は関白忠通や鳥羽院との関係が強かったことがわかる。
 仁平三年正月七日の除目で藤原光盛が正五位下に叙されている。本来なら中宮(忠通の養女呈子)大進の労によるものであるが、佐渡守の未勘公文の問題があったため「臨時御給」での叙位となった。摂関家家司であった。従五位上には三一才の平頼盛とその異母兄で三六才の教盛が補任されている。頼盛は一院給で判官代労によるもので、教盛は新院御給であった。両者とも待賢門院流の一員ではあるが、教盛の方かより崇德との関係が強かったことになる。なお除目の八日後に両者の父忠盛は五八才で死亡している。教盛の母は藤原家隆(師通の子)の娘で待賢門院女房であった。

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