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2018年11月 1日 (木)

池禅尼と頼朝3

 備後守実信は待賢門院の父公実の兄弟保実の子、紀伊守季輔は同じく兄弟である仲実の子である。和泉守範隆は清隆の弟で中宮権少進から待賢門院判官代を務めた。若狭守隆頼は白河院の近臣から待賢門院別当となった藤原基隆の子である。越中守顕定は源雅俊の子で、父の甥にあたる雅定(久我家二代目当主)の養子となった。母は源(藤原)国明の娘であり、安芸守為忠の姉妹となる。為忠より一世代下となるが、越中守以外の受領歴は確認できず、長承二年(一一三三)七月一六日には越中前司とみえる。「権弁太郎童」の元服で加冠者藤原宗忠、理髪者憲俊(兄=国明子で鳥羽院職事)とともに立ち会い「指燭」(明かりをかざす役?)を務めている。顕定の子で東寺長者となった定遍も長承二年の生まれであるが、雅定の養子に入っている。定遍が成人する前に父顕定が死亡した可能性が高い。
 池禅尼は平忠盛の妻で頼盛の母であるのみならず、平治の乱後に頼朝の助命をし、それが実現したことで知られているが、その生没年代や母については確実な情報を欠いている。実物を確認していないが、系図一本には長治元年(一一〇四)生まれで長寛二年(一一六四)に六一才で死亡したとあり、日野有信の娘が母とあるようだ。禅尼の長子家盛が一一二三年頃の生まれ(一一四九年に一七才?で死亡。『平治物語』では二三才とあるが、それなら一一一七年の生まれとなり、一一一八年生の清盛の兄となってしまう)、次子頼盛は長承二年(一一三三)の生まれである。
 禅尼の兄と思われる宗長については有信娘が母であると系図に明記されているが、同母兄の可能性が高いのではないか。日野有信は崇德院の近臣資憲の祖父であるが、その兄弟有綱の娘が義家の妻として産んだのが為義であることはすでに述べた。また資憲の母は有信の兄弟有定の娘である。禅尼の母が有信娘ならば、禅尼と為義並びに資憲の母は従姉妹の関係にあったことになる。『平治物語』では頼朝が禅尼の子で早世した家盛に生き写しであったころから助命を行ったとされるが、一方、元木泰雄氏は頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の子統子内親王)関係者や頼朝の母の実家で待賢門院女房が複数確認できる熱田大神宮家の働きかけによるとの説を提示し、五味文彦氏は頼朝の祖父為義の妻=義朝の母(藤原忠清の娘)が待賢門院女房であった可能性が強いことを説いているが、禅尼は母親との関係で頼朝を以前から知っていた可能性が高い。

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