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2018年11月10日 (土)

出雲守能盛再論2

 能盛の方が年齢が上なのか、寵愛が勝ったのかのいずれかであろうが(おそらくは後者)、五位叙任は嘉応三年三月と師高に先行している。師高は承安三年(一一七三)一〇月一六日の時点でもなお正六位上であり(百練抄)、翌四年八月二七日の時点で五位(大夫尉)であることが確認できる(玉葉)。能盛は出雲守に補任された承安四年正月以前に五位に叙されていた。
 能盛の父成景が能盛と名乗った時期があったとすれば、上記の関係史料はスムーズにつながり、それゆえに、成景の子で盛景の養子とするものと、盛景の実子とするものがあるような混乱が生まれたのではないか。
 なお、能盛は嘉応三年三月一二日には「大和大夫尉能盛」(清獬眼抄)とみえ、この時点では父の兄弟盛景の養子となっていた。能盛が養父盛景より位階の上昇が早いのは父成景との関係ならびに後白河の寵愛が大きかったであろう。能盛の活動時期が、父成景と西光(藤原師光)の関係をみることで、より明らかとなった。安芸守能盛とは当然別人である。
 師高がみえた「玉葉」承安四年(一一七四)八月二七日条には参内した公卿の中で散位であった人物として「出雲三位朝方」とあるが、この時点では出雲国から石見国の知行国主に遷任していたが、ながらく出雲国国主であったため、このように記されたと思われる(後白河院分国で知行国主が朝方という可能性も皆無ではないが、子である国守朝定が石見守に遷任している)。散位としては「能登三位基家」がおり、こちらは平通盛を国守としている能登国知行国主であった。通盛は平教盛(忠盛と待賢門院女房との間に生まれた)と日野資憲の娘との間に生まれ、上西門院女房小宰相(藤原為隆の子憲方と為房の弟顕隆の娘との間に生まれた)を妻としていた。知行国主持明院基家は上西門院一条を母とし、上西門院因幡を妻としていた。二人ともいわゆる待賢門院流に属していた。

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