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2018年11月 1日 (木)

池禅尼と頼朝2

 出雲守憲方は父為隆と藤原有佐娘の間に生まれている。有佐の姉妹が堀河乳母で敦兼の母となった兼子である。大治三年造営の待賢門院御願寺法金剛院の東新造御所の造営にあたったのは周防守憲方であった。保延元年(一一三五)三月二七日には鳥羽院による初渡が行われている。保延二年二月一一日以降は鳥羽院庁下文の署判者としてみえ、永治元年(一一四一)一二月に近衛天皇が即位したことにともない母得子が皇后に立后されると皇后宮大進となっている。その一方で、康治二年七月一一日に待賢門院の子で前斎院統子内親王が新造された三条室町殿に移徒した際には大蔵卿藤原通基、越中守源資賢とともに職事としてみえ、待賢門院との関係も維持していた。
 甲斐守雅職の祖父高実と父清実は受領を歴任しているが、その姉妹は藤原顕頼の室となっている。安芸守為忠は藤原知信と藤原有佐の娘との間に生まれており、憲方とは従兄弟となる。母は藤原敦兼の従姉妹となる。安芸守から三河守へ遷任し、さらに丹後守に遷任して受領を歴任した。三河守は源有賢の後任であり、丹後守は有賢の子資賢と相博する形であった。為忠の母と資賢の母はともに高階為家の娘であり、両者は従兄弟であった。また両者の従姉妹には白河院尾張、待賢門院女房遠江内侍、藤原清隆の妻もいる。

 宗兼は隆宗の子でその姉妹は藤原家保の妻で家成の母である宗子で、崇德天皇の乳母でもあった。家保の兄が白河院の寵臣で、その晩年の娘得子であるため、池禅尼と美福門院得子との関係が指摘されるが、禅尼の父宗兼が通仁親王五夜の負担を課されているように、より待賢門院-崇德との関係が深かった。それにゆえに崇德の子重仁の乳母となった。乳母となったので、保元の乱で選択に迷ったわけではない。忠盛は待賢門院庁の別当の一人であった。

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