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2018年11月 6日 (火)

源光隆再論2

 これが基隆が能俊より先に死亡したため、光隆は待賢門院判官代高階家行の娘と結婚し、待賢門院の分国となった出雲国の国守となったのだろう。家行の娘が待賢門院の第一皇女禧子内親王の女房となっていたが、内親王は長承二年(一一三三)に一二才で早世している。一方、待賢門院の第四皇子雅仁が後白河天皇として即位した際に、待賢門院女房経験者二名が勾当内侍ととされている(兵範記。安元三年には後白河の娘で前斎院式子内親王の女房として〈左衛門佐 家行女」がみえる)。関白藤原忠通は女房土佐と阿波を推した。土佐は大治四年には法金剛院御所の襖に名所絵を描くほどの女流絵師であり、女房の経験も豊富であったと思われるが、「旧主之恩」を理由に固辞したため、新たに前斎院女房小備中が阿波とともに勾当内侍に補任された。家行の娘が禧子内親王の死後、その妹である第二皇女統子内親王の女房となり、次いで後白河天皇の勾当内侍に転じたのであろう。光隆と結婚していたのはこの女性であろう。
 もう一人の阿波は待賢門院別当から崇德院の別当へ転じていたが、弟後白河の即位により天皇の勾当内侍とされていた。阿波は崇德院の最側近日野資憲との間に俊光を生んでいるが、後白河の即位に際し、俊光と日野資光の子盛業(阿波の弟)が天皇の蔵人に補任されている。後白河即位は、信西入道と美福門院によって近衛天皇の後継者となった二条即位の環境を整えるためのものとされるが、それ以上に崇德が中心となっている待賢門院流が一枚岩となることを阻止するためのものであった。平忠盛の後家池禅尼が頼盛に天皇方となることを指示したことにより、忠盛流の分裂が回避されたことはよく知られている。崇德の最側近資憲がなぜ出家という途を選んだのか不可解であったのが、子俊光の蔵人起用が原因かと得心したが、それ以上の取り込みがなされていた。すでに述べたように、池禅尼が頼朝の助命を図ったのはその容貌が故家盛に似ていたからではなく、苦渋の選択で敵とならざるを得なかった頼朝のことを日野家を介してよく知っており、ともに待賢門院流の一員であったからである。

 

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