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2018年11月10日 (土)

出雲守能盛再論1

 出雲守能盛については何度か述べたが、系図では能盛を盛景の養子とするもの(地下家伝)と特に記さないもの(尊卑分脈)があり、信盛については両方とも養子(随身磯部公春の子)としている。諸系図を集成して作成された『宮廷公家系図集覧』では地下家伝と同様養子説をとっているが、どちらを採用すべきかは微妙である。情報が混乱した背景を含めて述べてみる。
 平家物語の「中にも故少納言信西がもとにめしつかひける師光・成景という者あり。師光は阿波国の在庁、成景は京の者、熟根いやしきげろうなり。健児童もしは格勤者などにて召しつかはれけるが、さかざかしかりしによて、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とて、二人一度に靫負尉になりぬ。信西がことにあひし時、二人ともに出家して、左衛門入道西光、右衛門入道西敬とて、是は出家の後も院の御倉あずかりにてぞありける」とある成景と「古本保元物語」の頼長の首実検の記事で資俊・師光とともに派遣された滝口能盛は同一人物であろう(「成景」の誤りヵ)。保元の乱の結果、師光は左衛門尉、成景は右衛門尉に補任されるが(能盛が右衛門尉に補任されたという「兵範記」の記事との関係は微妙。成景が以前は能盛と名乗っていたのならすっきりつながるが。一方では二七日に右衛門尉に補任されている「大江成景」も気になる)、平治の乱で主人信西入道が殺害されたため出家して、師光は西光、成景(能盛)は西敬(景)となる。
 次いで嘉応二年(一一七〇)四月一七日に西光の子師高と成景の子能盛が同時に左衛門少尉正六位上の補任されている。師高は安元元年(一一七五)一二月末に父西光が知行国主(その上に院分国主後白河がいた可能性大、直前まで加賀国は上西門院の分国であった)である加賀国の守となり、能盛はその前年正月に後白河が分国主である出雲国の守となっている。承安三年一〇月一六日には検非違使師高が強盗一〇人を捕らえているが(百練抄)、これも西光の子師高であろう。

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