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2018年11月 6日 (火)

源光隆再論1

 出雲守と安芸守を務めた光隆について系図上の位置づけは不明であるとしたが、『広島県史』古代中世資料編1では安芸守源光隆について醍醐源氏能俊の子ヵとしている。院政期を中心に知行国主・国守を系図の上に落とした自作ファイル(一太郎)を作成しているが、そこでも以前に同様の推定をしていた。これが正解だと思われる。
 能俊は白河院の近臣俊明の子である。鳥羽天皇が即位した際には外戚である藤原公実が摂政の地位を望んだが、俊明が反対したことで、外戚に関係なく忠実の子孫が摂関を継承するきっかけをつくった。能俊も白河院庁の有力院司(別当)であったが、天治元年一一月に璋子が院号宣下をうけた際には中宮大夫から待賢門院庁筆頭別当に補任されている。
 能俊の母は藤原師基の娘であったが、その兄弟国明を俊明は養子としていた。国明は醍醐源氏家実の子為忠を養子としたが、為忠の母は高階為家の娘であった。源(藤原)光隆の生年は『中右記』によれば保安三年(一一二二)、『本朝世紀』にみえる没年と年齢が正しいとすると二年後の保安五年となる。父能俊は長承三年(一一三四)に六四才で死亡しており、光隆は能俊が五〇才ないしは五二才の時の晩年の子となる。能俊の嫡子は清和源氏頼綱の娘を母とする俊雅で、光隆よりも二〇才前後年長であった。光隆が「藤原」となったのは祖母(能俊の母)が藤原師基の娘であったことによると思われる。光隆が院近臣藤原基隆後家の猶子となったのは、基隆の祖父師家と能俊の母方の祖父師基が同母兄弟であったためであろう。
 晩年の子で、能俊が死亡した時点で一〇才ないしは一二才であった子の将来を院近臣基隆に託したのであろうか。ただし、基隆は能俊に先んじて天承二年(一一三二)に五八才で死亡したため、基隆後家の猶子と記されたのであろう。基隆も堀河天皇の乳母子であることを背景に白河院の近臣となっていたが、元永元年正月に璋子が中宮となった際には、伊予守基隆が調度を調進し、二年六月に鳥羽と待賢門院の長子として誕生した顕仁親王(崇德)家職員が定められた際には播磨守基隆は政所別当となっていた。大治三年〈一一二八)一二月の待賢門院庁牒では公卿別当四人に次ぐ四位別当筆頭として署判を加えている。

 

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