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2018年10月29日 (月)

長元九年の正殿遷宮

 長元九年(一〇三六)の正殿遷宮については、旧記をはじめとする中世の史料にはみえないが、近世初頭の「杵築大社旧記御遷宮次第」(以下では「次第」)に初めて登場する。ただしその前に記されている長元四年(一〇三一)八月一一日の顛倒については出雲守橘俊孝から報告があったが、後に虚偽であったことが判明している。そのためか『遷宮』の年表でも「長元9年?」と疑問符が付けられている。
 この遷宮を行ったのは国造兼神主吉忠であったと記されている。この時点で「神主」は存在しないが、それはさておいて「吉忠」についてはどうであろうか。家譜によると正暦四年(九九三)から四五年間国造の地位にあり、長暦元年(一〇三七)に国明に交替している。建久二年八月二日出雲国在庁官人等解によると、紛失状のリスト中に正暦四年一一月日に吉忠を補任した国造庁宣と長暦二年二月日に国明を補任した国造庁宣が記されており、国明の補任年が一年違うが、根拠があるようにもみえる。しかし一方では、長保四年(一〇〇二)六月二八日には太政官符で出雲臣孝忠が国造に補任されており、当時の国造が国司庁宣で補任されていたという建久二年の在庁官人解に記された内容は虚偽のもので、長元四年時の国造も吉忠ではなく孝忠であった可能性が大きい。
 長元五年九月に橘俊孝が虚偽の託宣があったとした罪により出雲守を解任され佐渡国に配流されている。この直後に藤原登任が後任として出雲守に補任されたと思われるが、長元九年七月一三日に解状を提出した。長元五年以来の在任中の公文の勘済を望んだところ、担当者から前任者の公文の勘済が先だと指摘された。これに対して登任は俊孝の配流を理由に、その公文勘済なしに自らの勘済をすることを求め、八月三〇日に認められた。この後、杵築社造営の功による延任を申請し、認められたと思われる。この時点で造営は続けられており、同年一〇月二八日に正殿遷宮を行ったと記す「次第」の記載は事実ではない可能性が極めて高い。
 その後、長久元年(一〇四〇)正月五日には出雲守藤原登任が杵築社修造の功により正五位下に叙せられている。これによりすでに造営・遷宮は終わっていたことがわかるが登任はなお出雲守であった。この後まもなく出雲守を辞任したと思われる。その後の登任は『陸奥話記』で永承六年(一〇五一)に陸奥守に補任された源頼義の前任者としてみえる。
 以上の点から長元九年八月一一日の顛倒と一〇月二八日の正殿遷宮は事実ではなかった可能性が極めて高い。

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