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2018年10月16日 (火)

崇德院領と国司1

 崇德院の御願寺である成勝寺領の寄進者についてはすでにみたが、一方でその寄進・立券を認めた国司はどのような立場にあった人物であったかを確認する。荘園絵図で有名な紀伊国桛田荘については、一時期は讃岐院領(御願寺領ではなく庁分であろう)であったが、久安四年(一一四八)正月二八日に紀伊守に補任された紀伊守源季範の時に国領に戻されたとされる(平安遺文補二三五)。大治五年正月二八日に紀伊守に補任された藤原公重は待賢門院の兄で徳大寺実能の養子となった人物であり、保延三年時点での現任が確認できる。養父実能が知行国主であったと思われる。次いで保延四年二二日に紀伊守に補任され、翌五年の現任が確認出来る藤原親能は親頼の子で、母は皇太后宮女房因幡で、皇太后=待賢門院に仕える女官であった。
 保延六年(一一四〇)四月三日には源雅重が紀伊守に補任された。その祖父源基平は小一条院の子が源姓を与えられた人物であり、その娘は後三条との間に実仁・輔仁という二人の皇子を生んでいた。後三条は摂関家との外戚関係のある白河に替えてこの二人を天皇にする意向であったが、その急死により、白河は自らの子堀河に天皇を譲った。そのため基平の子行宗の昇進は二五年間にわたって停滞したが、晩年になって待賢門院藤原璋子への昇殿を聴されて、保延五年(一一三九)には女院の御給で従三位に叙せられて七六歳で公卿に列した。翌年には養女兵衛佐局が崇德天皇との間に重仁親王を生んでいる。
 雅重は父と同様歌人としては知られ、二条天皇の歌会の常連であったとされるが、公卿には昇進できなかった。桛田荘の立券はこの雅重が紀伊守の時代に認められたものであろう。崇德の御願寺成勝寺への所領寄進が本格化するのが母待賢門院が死亡した天養二年(久安元年)以降のことである。雅重の後任の紀伊守は鳥羽の北面出身の源季範であったが桛田荘を認めず停廃してしまった。当時の庄園と受領の対立を反映したものであろう。

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