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2018年10月29日 (月)

天仁元年の仮殿遷宮3

  『遷宮』の年表の参考資料とされていた奈良文化財研究所『出雲大社 社殿等建造物調査報告』(大社町教育委員会、二〇〇三)は未見であったので、県立図書館で確認した。近世以前の造営の変遷の原稿は井上寛司氏の執筆であり、それならばなぜ最新の二〇〇九年の『日本中世国家と諸国一宮制』ではなく、旧稿によったのかは理解不能である。井上氏の見解も、A一九九一年、B二〇〇三年、C二〇〇九年のものでは微妙に変化している。
 AとBでは唯一天仁年間の仮殿遷宮の時期のみ異なっている。Aが天仁二年の顛倒後に仮殿遷宮を位置づけたのに対して、Bでは天仁元年の顛倒→同年の仮殿遷宮としている。誤植かとも思ったが、西暦年号も異なっており、理由は不明だが一年前倒しにされている。天仁元年一一月の遷宮については旧記で裏付けられるが、同年三月の顛倒については旧記には記載がない。関係史料としては旧記がより信頼性が高いとして、天仁二年と記した史料よりも優先したのであろう。前述のようにCでは天仁元年(一一〇八)一一月の遷宮後、翌年三月に顛倒があったとする。二〇一六年刊行の『松江市史』では西田氏が天仁元年一一月に仮殿遷宮が行われたとするが、顛倒ににいては言及していない。これに対して『松江市史』と同じ日に刊行された『遷宮』では、天仁二年に仮殿遷宮があったとしているが、その根拠はそう記した後年の史料がある以外は示されていない。
 井上氏の最新の見解では仮殿遷宮が終了後、正殿造営が停滞する中で、仮殿が顛倒したとの解釈であろうが、正殿とは異なり仮殿の高さはそれほどなかったと思われ、地震などの災害や火災による焼失以外は考えられないが、それならば再度仮殿を造営し、遷宮を行ったはずであるが、そうした記録は一切残されていない。顛倒はなかったが、国造義孝が作成した申状で、造営の必要性を裏付けるために付け加えられたものであろう。前述のように藤原顕頼による造営事業は、顛倒ではなく、前任の家保時代の状況を踏まえ、政府に申請し認められて開始したものである一年半にわたる中断はあったが、天仁三年七月に因幡国等から材木が供給された時点から三年で完成したものである。
 これに対して久安元年(一一四五)の遷宮については永治元年(一一四一)六月に顛倒したことが旧記にみえており、とりあえず修造した竈殿へ御神体を遷した上で、政府の実見使の確認をうけた上で、仮殿造営が開始され、翌年一一月に仮殿遷宮が行われた。顛倒から仮殿遷宮まで約一年半かかった原因については不明である。前回は政府が仮殿造営を認めた一月後には遷宮が行われている。同じく顛倒により舞殿に御神体を遷した上で仮殿造営を開始した出雲守藤原章俊の時期には顛倒の半年後には仮殿遷宮が行われている。

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