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2018年10月29日 (月)

出雲守藤原朝経について

 朝経は藤原朝方の子で、兄朝定とともに藤原師綱の娘が母である。朝定は長寛三年(一一六五)の生まれであったが、寿永二年(一一八三)一〇月二六日に一九才で死亡した。系図では朝定室と朝経室はともに藤原親信の娘とされ、記載順が正しいとすれば朝経室が姉となる。何が言いたいかと言えば、朝定の同母弟であった朝経との間の年齢差は一~二才ではなかったかということである。仮に二才下(一一六七年生)とすると、兄の死により出雲守に補任された時点では一七才となり、父朝方が知行国主であった。
 前に偽文書であると判断した①文治元年一一月三日出雲国司庁宣が出された時点で朝経は一九才であるが、国司庁宣には知行国主である朝方の袖判はない。出雲守朝経による国司庁宣としては②建久五年二月一九日のものと③翌六年四月日付のものが残っている。この時点では朝経は二八~二九才であるので、父朝方ではなく朝経自身が出雲国務を執っていても不自然ではなく、この二通に袖判がない=朝方は知行国主ではなくなっていたことは理解できる。また、②③の花押は父朝方のものと共通性があるが、①は共通点より相違点が大きい。
 朝経は三〇才をわずかに越えた建久八年一二月に急死した。その後任が短期間とはいえ朝方・朝経との関係が確認できない藤原清長(定長1195没と後白河院分国の出雲守であった藤原能盛娘の子)であったのも、出雲国が朝方の知行国ではなかったからであろう。ただし、清長の後任として建久九年九月八日に出雲守に補任された藤原家時は朝方室の甥にあたり、この時点で出雲国は再び朝方の知行国に戻った可能性が高い。
 以上により、文治元年一一月三日出雲国司庁宣が偽文書であることを再確認した。

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