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2018年10月16日 (火)

崇德院領と国司3

 保延三年(一一三七)に安芸権介実明が周防国小俣・田島・高墓庄を法金剛院に寄進しているが、その際の周防守も憲方であった。この三庄は天治二年(一一二五)に白河院庁下文により玉祖社領であることが認められていたが、それを法金剛院に寄進することでその領有を確固たるものとした。これにより実明の子孫による三庄の預所職の相伝が保証された。憲方の子頼憲は待賢門院庁判官代藤原知通の娘を妻とし、その子親房は待賢門院の子上西門院判官代となっている。憲方自身は鳥羽院庁下文にはみえても待賢門院庁下文の署判者としてはみえないが、待賢門院とは緊密な関係にあった。
 実明は大宰権帥季仲の子であった。長治二年に父が延暦寺の強訴により常陸国に流罪となった時点で少納言を解任され、父は流罪の地で没したのに対して、実明は復帰し、その娘が待賢門院女房となっていた。
 仁平四年に摂津国難波庄が寄進された際の摂津守は藤原顕業の子俊経である。俊経は憲方の姉妹や平実親の娘を妻としていた。俊経の娘は憲方の同母弟光房の子光長の妻となっている。実親は天治元年(一一二四)年に院号宣下が行われた際に中宮職権少進から待賢門院庁判官代となり、大治三年一二月の待賢門院庁牒にも判官代としてみえる。実親は受領を歴任し、大宰大弐となり、従三位公卿に進んだ。為隆の娘との間に生まれた嫡子範家は待賢門院別当藤原清隆の娘を妻としている。そして範家の娘は光房の嫡子経房の妻となっている。
 最後に、崇德院の側近日野資憲が天養二年(一一四五)に揖屋社を寄進した際の出雲守は藤原光隆であったが、まだ一〇代であり、実権は父で知行国主であった清綱が握っていた。仁平二年には増仁が飯石社を寄進したが、その際の出雲守は院近臣藤原基隆の子経隆であった。基隆は待賢門院別当であり、大治三年に落成した院の御願寺で後に六勝寺の一つとされた円勝寺の造営に際しては伊予守であった基隆が西塔を増進した。大治五年の法金剛院造営では本堂を基隆が造営している。
 以上、信濃守賢行については不明であったが、その他の国守はいずれも待賢門院と密接な関係を有した人物であったことが確認できた。

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